『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』矢西誠二 編 第一話「ルーツを知る」 あだち充先生に影響を受けた少年時代「普通のサラリーマンになるつもりでしたが、17歳で入院して考え方が変わりました」

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


第20回目のゲストは、矢西誠二氏が登場。取材は、氏のお気に入りの場所である吉祥寺・井の頭公園にて。タレントの作品撮りを精力的に投稿しているインスタグラム、グラビアの現場であえて使用されるフィルムカメラなど、その独自のこだわりを聞いた。


矢西誠二作品のデジタル写真集一覧はコチラから!


 

——今回は、取材場所として矢西さんの方から「吉祥寺の井の頭公園はいかがですか?」とご提案いただきました。何か思い入れのある場所なんですか?


矢西 思い入れというか、単純に吉祥寺という町が好きなんですよね。以前住んでいたとか、吉祥寺のお店に特別詳しいとか、そういうわけではないのですが、中でも井の頭公園は、作品撮りで女の子を撮らせていただく際に訪れたくなってしまう場所なんです。地域でいえば、柴又や葉山なども好きですけどね。


——そういえば、矢西さんが撮影を担当された小松彩夏さんのデジタル写真集『KOMAPHOTO[fantasy]』にも、井の頭公園では定番のボートに乗っているカットがありましたね。


 

小松彩夏『KOMAPHOTO[fantasy]』


矢西 小松さんが約5年ぶりに週プレでグラビアを披露した際の撮り下ろしですね。僕のインスタグラムには、この小松さんのアザーカットしかり、吉祥寺の町並みや井の頭公園をバックに、フィルムカメラで撮影したタレントさんとの作品撮りをいくつか載せさせていただいています。井の頭公園を選ばせていただいたのは、そんな理由ですね。わざわざお越しいただきありがとうございます。


——とんでもございません。普段作品撮りで使用されているフィルムカメラまでご持参いただき、こちらこそありがとうございます! では早速、生い立ちからお聞きしていきたいのですが、子どもの頃はどんなお子さんだったんですか?


矢西 今もそうなんですけど、周囲からの影響を受けやすいタイプの子どもでした。出身は徳島県で、小学生の頃はサッカー部に、中学生の頃は野球部に入っていて。それぞれ、当時流行っていた漫画の『キャプテン翼』と『タッチ』に憧れて始めたようなものなんです。体を動かすことは大好きでしたし、真面目に取り組んではいましたけど、そもそも漫画が動機ですし、いずれもプロを目指すほど熱中していたわけではなかったですね。


——なるほど。ベースとしては、漫画がお好きだったんですね。


矢西 特にあだち充先生が描く世界観には、かなり影響を受けた自覚があります。グラビアって、男性読者的には、学生時代に実らなかった恋愛を重ねたり、理想のヒロイン像を思い浮かべたりしながら見るものじゃないですか。それは、少年時代の僕が『タッチ』のヒロイン・浅倉南にときめいていた感覚に近しい気がするんです。実際、グラビアを撮らせていただく際には、どこかであだち先生の漫画っぽい雰囲気を求めているところがありますね。あだち先生からすれば、似ても似つかない雰囲気なんでしょうけど(笑)。と言っておきながら、実は僕、あだち先生とお仕事をさせてもらったことがあるんです。あれは、忘れられない経験だなぁ……。


——えーっ! ど、どんなお仕事だったんですか?!


矢西 あだち先生プロデュースとして、野球選手・片岡安祐美さんの写真集『TOUCH UP!』(小学館/2008年)を撮らせていただいたんです。あだち先生の絵コンテをもとに片岡さんを撮影をさせてもらったり、あだち先生にも写真のセレクトをお願いしたり。あだち先生のファンの方にも楽しんでいただける写真集になりました。もとは漫画雑誌『少年サンデー』のいちコーナーで、あだち先生が“会いたい野球選手”として片岡さんの名前を挙げられたのがきっかけだったんですよね。そのときも、あだち先生と片岡さんのツーショットや、ふたりで腕相撲している写真なんかを撮らせていただきました。


——す、スゴい。少年時代の矢西さんが聞いたら、ビックリするどころの話じゃないですね。


矢西 あだち先生って、ものすごく謙虚で丁寧な方なんですよ。お仕事でご一緒して、改めて人格を知ったとき「少年時代に、この人から影響を受けて良かったな」と素直に思いましたね。


——ドラマみたいな話だなぁ。話を戻して、漫画の影響からサッカー、野球に励まれた少年時代の後を聞かせてください。高校生くらいになると将来を考え始めると思うんですけど、何かなりたい職業はありました?


矢西 普通のサラリーマンになりたいと思っていましたね。父親が自営業で商売をやっていて、その大変さは知っていたので、一般企業に就職して、毎月決まったお給料+ボーナスがもらえる会社員になるつもりでいました。プライベートが充実していたらいいかなって。徳島から出ていくことも考えていなかったです。


——特に夢はなかったと。現実的ですね。


矢西 ただ、高校2年生のときに習い事でボクシングを始めたんです。同級生がやっているのを見て、興味を持っただけなんですけど、途中で腎臓を悪くして、3ヶ月ほど入院する羽目になって。当時、先生からは「腎臓は治す術がない。悪化する可能性もあるけど、自然に治癒するのを待つしかない」と言われました。ボクシングやスポーツができなくなるどころか、最悪、寝たきり生活です。17歳の高校生だった僕からしたら、かなりキツい宣告でした。


——それはお辛いですね。原因は何だったんでしょう?


矢西 分からないんです。無事に退院できたものの、直後は歩くだけでも苦しくなる状態でした。悲観的にもなりますよね……。でも、その反動なのか、少しずつ体力が戻ってくると、「普通のサラリーマンじゃなく、手に職を付けた仕事がしたい」と考え方がまるで変わったんです。楽しい気分になりたかったんでしょうね。たまたま読んでいた雑誌に載っていたカメラマンの特集を見て、ちょっと写真でもやってみようかな、と。親父も背中を押してくれたので、大阪にある2年制の写真学校に進学を決めました。それまで、写真なんて全く興味がなかったんですけどね。


——病気を経て、逆に気持ちが前向きになられたのは良いことですけど、なぜカメラマンだったんでしょう?


矢西 僕が最初に見たのは、いわゆるスポーツカメラマンだったんです。子どもの頃からスポーツには馴染みがあったし、スポーツに関わる仕事ができたら面白そうだなと。大まかな理由はそこですね。とはいえ、思いつきに近い感じです。実際、僕が通うようになった写真学校は、写真作家を育てる学校で、スポーツカメラマンの視点とは無縁の世界でしたから(笑)。あ、腎臓は今も完治したわけじゃないのですが、人間ドッグで問題がない限りは特別な検査は必要ないと言われていて。ひとまず健康体なのでご安心ください!


矢西誠二 編・第二話は4/14(金)公開予定! 写真学校へ進学後、いきなり写真にどハマり!?「写真家の橋口譲二さんに言われたんです。『一度、カメラを置いて魚市場に通ってみなさい』って」


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矢西誠二プロフィール

やにし・せいじ ●カメラマン。1972年生まれ、徳島県出身。

趣味=作品撮りの撮影(作品はインスタグラムをチェック)

カメラマン・渡辺達生氏に師事し、1999年に独立。

主な作品は、片岡安祐美「TOUCH UP!」、飯豊まりえ「NO GAZPACHO」、森咲智美 「T&M」「Utopia」、坂ノ上茜「あかねいろ」、北向珠夕「M~気の向くままに~」、竹内花「花の蜜」など。

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