『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』矢西誠二 編 第二話「思い出を知る」 「橋口譲二さんに言われたんです。『一度、カメラを置いて魚市場に通ってみなさい』って」

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


第20回目のゲストは、矢西誠二氏が登場。取材は、氏のお気に入りの場所である吉祥寺・井の頭公園にて。タレントの作品撮りを精力的に投稿しているインスタグラム、グラビアの現場であえて使用されるフィルムカメラなど、その独自のこだわりを聞いた。


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——前話でお聞きした話だと、地元の徳島から大阪の写真学校への進学は、かなり勢いで決められた印象です。進学後、「やっぱり違ったかも」といった後悔はなかったですか?


矢西 全くなかったですね(キッパリ)。むしろ、写真学校への進学をきっかけに、どんどん写真表現にハマっていきました。


——もとはスポーツカメラマン志望だったにもかかわらず、進学された写真学校は、写真作家よりだったともおっしゃっていましたが。


矢西 スポーツカメラマン志望といってもフワッとしたものだったし、それ以上に、写真学校で出会う面白い人たちから受ける刺激の方に夢中になっていったんです。いわゆる学部みたいなものがなかったので、3人の先生が開講している授業を自由に受けに行くスタイルだったんですけど、その先生たちの個性もとにかく強烈だったし、同級生の中にも暴走族の総長がいたり、大きな銀行の御曹司がいたり、実家が魚屋さんの子がいたり、いかに自分が平凡な環境で育ってきたかを思い知るような学校でしたから(笑)。それまでは、これといった趣味もなかったし、あだち充先生の作品に現実逃避する時間が唯一の楽しみだったくらい、リアルな人生に冷めていたところがありました。そういう意味でも、今も30年以上好きでい続けられている写真との出会いが生きている世界を大きく変えてくれたと言っても過言じゃないんですよね。


——そこまで写真にハマられたのには、何かきっかけがあるんですか?


矢西 僕の好きな写真家って、現時点で二人しかいないんですよ。一人は、後に僕の師匠となる渡辺達生さん。もう一人は、写真学校に入学してすぐの頃、たまたま学校の講演会にいらしていた橋口譲二さんです。僕が写真に本気になれた最初のきっかけは、確実にこの橋口さんとの出会いですね。


——橋口さんというと、80年代から人物写真を中心に活躍されている写真家ですよね。日本から海外に渡り、街中の路上に集う10代の少年少女を撮った写真集『俺たち、どこにもいられない』(草思社、1982年)や、日本各地にいる17歳のポートレートをまとめた写真集『17歳』(角川書店、1998年)など、これまでにたくさんの作品を発表されています。


矢西 最初は、講演会で感じた橋口さんの人柄に惹かれました。一言一言を考えながら話されている姿が印象的で、その優しく丁寧な姿勢に、吸い込まれるように好きになった記憶があります。橋口さんのように写真を生業にできたら楽しそうだなって、その生き様にも憧れましたね。橋口さんの中でも、僕は特に『BERLIN』(太田出版、1992年)という写真集が好きでした。ベルリンの壁崩壊後の1990年12月から1991年2月にかけて、旧東ベルリンを中心にモノクロで撮影されたドキュメントなんですが、写真学生時代は、よくその写真集の雰囲気を真似しながら作品撮りをしていました。といっても、僕が撮っていたのはベルリンではなく魚市場の写真なんですけど(笑)。


——魚市場?


矢西 制作課題の撮影テーマに悩んでいたとき、実家が魚屋さんの同級生が誘ってくれたのをきっかけに、毎日のように魚市場に通うようになったんです。もともとは、その子が撮影テーマとして選んでいた場所だったんですけど、いつの間にか僕の方が魚市場での撮影に夢中になってしまって。


——な、なるほど。いったい、魚市場の何に夢中になられたんでしょう?


矢西 忙(せわ)しなく働く姿を切り取る中で、ふと笑顔の写真が撮れるのが楽しかったんでしょうね。ずーっと通い続けていたら、魚市場の人たちも「あ、またあの学生が写真撮りに来ているな」って、僕を認識してくれて。「撮らせてください」って言うと、「ええよー。せやけど、恥ずかしいから一枚だけな」みたいな感じで、快(こころよ)く受け入れてくださったんですよね。朝4時に始まるせりに向けて、2時くらいから撮影を始めて、作業が片付く7〜8時くらいまで魚市場で写真を撮っていました。終わったら、家の風呂場でフィルムを現像して、夕方ごろまで寝て、乾いたネガフィルムを持って、学校の暗室でプリントして。しばらくは、そんな生活を送っていました。


——スゴいですね(笑)。写真学校進学後、相当写真にハマられたのが伝わってきました。


矢西 結果的に1年半くらい撮らせてもらったのかな? 写真を撮ること、写真を介して表現することが、楽しくて仕方がなかったんです。全て、橋口さんと出会えたおかげですね。実際、何度か橋口さんに、僕が撮った魚市場の写真を見てもらったこともありました。


——憧れの橋口さんは、何と?


矢西 「君の写真には時(とき)が見えないね。一度、カメラを持たずに魚市場に行ってみるといいよ。カメラを持つことで、見えなくなることもあるから」って。言われるがまま、手ぶらで魚市場に通ってみましたけど、正直なところ、当時はおっしゃる意味を理解できなかったですね。それでも、「橋口さんは『BERLIN』の中で、どう時(とき)を写していらっしゃるんだろう」と、何回も読み返したりして。最後の卒業制作展では、夜から朝になっていく時間軸を意識して組んだ魚市場の写真と、街中で声をかけて撮らせてもらった人たちのポートレート写真を合わせて、作品にしました。そしたら、校内の優秀賞のうちのひとつに選ばれたんです。


——おーっ、スゴい!


矢西 いやぁ、かなり大きな自信になりましたね。「俺、写真でやっていけるかも?」って、わりと本気で思いました。って、ずいぶん調子に乗っていますけど(笑)。


——それにしても、本当に写真との出会いが人生を変えたと言っても過言じゃないんですね。写真学校卒業後は、どのような進路に?


矢西 上京して、東京の代官山スタジオに入社しました。写真学校では商業の写真についてほとんど学ばなかったので、写真で生計を立てるためにも、まずスタジオに勤務するのが良いんじゃないかと思ったんです。代官山スタジオは、厳しいけど、大手クライアントの現場がたくさんあると聞いていたので、自分の将来についても何か見える気がしたんですよね。同級生の中で代官山スタジオに就職する人は一人もいなかったし、代官山って響きも何か良いし(笑)。


——響きはわからないですけど(笑)、代官山スタジオをお選びになった理由からは、「本気で写真で食っていくぞ」って気概がうかがえますね。


矢西 体育会系な姿勢が好印象だったのか、社長にものすごく気に入られて、面接は即採用でした。何なら、そのままの足で社長のお友達の不動産屋さんを紹介してもらって、上京後に住む部屋まで決めて帰ってきたほどです(笑)。われながら、スゴい勢いで人生が進んでいきました。そして代官山スタジオで働いていた頃に、(後に師匠となる)渡辺達生さんと出会ったんです。


矢西誠二 編・第三話は4/21(金)公開予定! スタジオマン時代に出会った渡辺達生氏に弟子入り「実は一度、断られているんです(笑)」


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矢西誠二プロフィール

やにし・せいじ ●カメラマン。1972年生まれ、徳島県出身。

趣味=作品撮りの撮影(作品はインスタグラムをチェック)

カメラマン・渡辺達生氏に師事し、1999年に独立。

主な作品は、片岡安祐美「TOUCH UP!」、飯豊まりえ「NO GAZPACHO」、森咲智美 「T&M」「Utopia」、坂ノ上茜「あかねいろ」、北向珠夕「M~気の向くままに~」、竹内花「花の蜜」など。

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