『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』橋本雅司 編 第一話「ルーツを知る」 友達に馴染めなかった少年が、大学で写真家・三木淳氏に認められるまで「近所の喫茶店にいたお姉さんのセミヌードを評価してもらえた」

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


第21回目のゲストは、安達祐実『17歳』や山地まり『処女』など、数々の女優・タレント写真集を手がけてきた橋本雅司氏が登場。過酷なスタジオマン時代を西田幸樹氏と共にし、巨匠・篠山紀信氏のもとでアシスタントを務めた氏が考える“被写体への向き合い方”とは。浅草にある氏の事務所にうかがい、話を聞いた。


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——満島ひかりさんに仲間由紀恵さん、上戸彩さん。それに、坂本龍一さんや忌野清志郎さん、瀬戸内寂聴さんなど、錚々たる面々の写真が壁一面に飾られていて、つい見入ってしまうのですが……、早速、カメラマンになるまでの経緯からお聞かせください! ご出身はどちらでしょうか。


橋本 ここ。東京浅草。子どもの頃から今も、ずーっと浅草。すぐ近くに吉原があるもんで、中学生くらいの頃から親に内緒で遊びに行っていたね(笑)。


——アハハ。子どもの頃は、結構ヤンチャなタイプだったんですか?


橋本 いやいや、全然。特に小学生の頃は、ちょっと異常な感じで。友達が全くいなかったんだよね。


——というと?


橋本 頭が良くなかったっていうか。喧嘩が強いとか、お金持ちだとか、人より優れた何かがあれば周りの友達を動かせるって思い込んでいて、偉そうに命令ばっかりするような子どもだったの。あるとき、何人かが遊んでいる輪に寄って行こうとしたら、「はっちゃん来るから、帰ろう」って、誰かが言ったのを聞いて。多分ね、ものすごくイヤな奴だったんだと思う。


——周りの友達とうまくコミュニケーションが取れなかった。


橋本 うん。一人っ子だったし、お袋が実家で床屋をやっていて、一緒に手伝ってくれている人たちから「まぁちゃん、まぁちゃん」ってかわいがってもらっていたし、何でも自分の思い通りになると勘違いしていたんだろうね。その分、ひとり遊びも得意で。当時は、絵を描いたり、おもちゃのロボット片手に走りまわったり、頭の中で自分の世界を広げて遊ぶのが好きな子どもだった。そういうのは、今の職業にも繋がっているのかなと思うけど、まぁ、あの頃に戻りたいとは思わないね。


——なるほど。そんな性格が変わるきっかけはあったんでしょうか?


橋本 中学生くらいかな。自分で「何かイヤだな」と思い始めて、少しずつ人との付き合い方を考えるようになった。そしたら仲良くしてくれる友達も増えてきて。高校は、日大一高っていう、スポーツが強い日本大学の付属高校に進学したんだけど、全国大会目指して頑張っている奴らの空気を感じつつ、俺は帰宅組で、仲間たちと喫茶店でタバコ吸ってお茶して帰ってくる、みたいな生活を送っていたね。今の感覚だと不良に映るかもしれないけど、当時は全然普通のことで。喧嘩はあっても警察沙汰になったことはないし、俺からすれば、やっと親友と呼べるような友達と出会えたって感じだったよ。


——そうだったんですね。ちなみに、日大一高に進学されたのには何か理由が?


橋本 「日大だったらいろんな学部があって選択肢も増えるから」と、親父に言われたからだね。勉強もスポーツもできるほうではなかったけど、付属に行ければ将来を考える余地があるだろうって。


——橋本さん自身、将来の夢はあったんですか?


橋本 うーん。特に深く考えていなかったけど、当時、家の前に写真屋があって、そこにヨッチャンっていう10個ほど歳の離れた、子どもの頃から世話になっている兄ちゃんがいたんだよ。それで、ちょうど俺が文系理系に進路を決める高校2年生のとき、ヨッチャンが、3浪の末に御茶ノ水にある東京写真専門学校に進学したの。そこで初めて「芸術学部」という専門分野があることを知って。「芸術だったら、勉強ができなくても、早稲田や慶應、東大の奴らに勝てるかもしれない」「写真学科に行けば、ヨッチャンともっと話ができるかもしれない」って。そんな動機で文系に進んで、卒業後は、日本大学の芸術学部写真学科に進んだんだよね。


——そうだったんですね。ということは、もし家の前が写真屋じゃなかったら……。


橋本 今、ここにはいないだろうね。親父が大工さんだったから、建築学部に進んでいたか、全く別の道を見つけていたか。うん、ちょっと考えられない(笑)。大学に進学するまで、写真とはほとんど無縁の人生だったにもかかわらず、ようやく“やりたいこと”が見つかった感覚があったというか。大学生活はスゴく楽しかったよ。同じ芸術学部の演劇学科には、女優を目指す美人でおしゃれな女の子がたくさんいたし、放送学科には『極道の妻たち』(文藝春秋/1986年)を書いた家田荘子さんが同級生にいて、ひとつ下には、朝ドラの『花子とアン』(2014年)や大河ドラマの『西郷どん』(2018年)の脚本を手掛けた中園ミホさんがいて。かなり刺激的だったね。


——す、スゴい……。ひょんなきっかけから進学された写真学科でしたが、写真を撮る行為自体にも魅力は感じられていたってことですか?


橋本 そうだね。1〜2年生のときはそうでもなかったんだけど、3年生の頃に、写真家の三木淳さんが教授として来てくれていたジャーナリズム論という授業を受けたのよ。三木淳さんっていうと、アメリカで発行されていたグラフ雑誌『LIFE(ライフ)』で、日本人で初めて正規スタッフ写真家として活動されていた超スゴい方。『LIFE』の表紙にも採用された、葉巻を咥えた吉田茂首相の写真が有名なんだけど、その方が、年に2〜3回ほど、授業を受けている生徒の写真を見てくれたんだよ。そしたら、全部で70人くらい生徒がいる中で、俺の写真をスゴく褒めてくれるわけ。今も写真家として活動しているような、三木さんに師事したいって同級生が何人もいた状況で、直々に「キミ、スゴいね」って。


——そ、そんな夢みたいな話が……!? そのとき橋本さんが三木さんにお見せした写真は、どういう一枚だったんですか?


橋本 近所の喫茶店にいたお姉さんをちょっと脱がして、明るく撮ったセミヌード写真を何枚か。何かを意識して撮ったわけじゃないけど、後になって思うのは、お姉さんとの距離感や空気感、存在感みたいなものを評価してもらえたのかなって。子どもの頃、友達にうまく馴染めなかった経験が影響しているのか、本能的に、人に対する興味はあるほうなんだと思う。周りの同級生たちからも「橋本の人物写真を見ていると、俺は人物以外の方面に行ったほうがいい気がするんだ」なんて言ってもらえて。俺も、才能ある人たちの仲間に入れるのかもって、大きな自信になったね。


——その同級生の中には、高校生の頃から写真を続けて、それでも思うような評価が得られない方もいらっしゃったはず。写真を始められた橋本さんが三木さんに認められたのは、持って生まれたセンスというか、努力ではまかなえない才能があったということなんでしょうかね。


橋本 ラッキーだったよね。でも、写真に限らず芸術を生業にしている人たちはみんなそうだと思う。


——では、大学を卒業される頃には、本格的にカメラマンで食べていこうと思われていたんでしょうか?


橋本 そうだね。大学の卒業写真展のポスターにも俺の写真が代表して使われたし、大学4年で三木さんのゼミに入ったんだけど、三木さんからも「お前は写真をやっていけ」と言われていたし。自分にとっても“やりたいこと”だったからね。……って話をしたら、親父が「三木さんと話をさせてくれ」なんて言い出して(笑)。


——えっ、お父様が?


橋本 そう。三木さんに「(写真を)やらせるのは構わないけど、ちゃんと食えるようにしてやってくれ」って、伝えるために。卒業後は、そのまま三木さんの勧めで赤坂スタジオに就職。そこで(カメラマンの)西田(幸樹)さんと初めて会うんだよ。まぁ、そのスタジオ時代は超過酷だったんだけど(笑)。


橋本雅司 編・第二話は5/20(金)公開予定! 巨匠・篠山紀信氏のアシスタント時代を振り返る。「海外ロケは基本ファーストクラス。一流の世界とはいえ、超過酷な赤坂スタジオを卒業したからには、自分が通用する自信はあったね」


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橋本雅司プロフィール

はしもと・まさし ●カメラマン。1958年生まれ、東京都出身。

趣味=ゴルフ

写真家・三木淳氏、篠山紀信氏に師事し、1986年に独立。

主な作品は、安達祐実「17歳」、仲間由紀恵「20th」、上戸彩「SEPTEMBER FOURTEENTH」、沢尻エリカ「erika」、磯山さやか「ism」「GRATITUDE ~30~」、満島ひかり「あそびましょ。」、ほしのあき「秘桃」、吉高由里子「吉高由里子」、道重さゆみ「La」、小向美奈子「花と蛇 3」、武井咲「風の中の少女」、剛力彩芽「Shizuku」、山地まり「処女」、小芝風花「風の名前」、岸明日香「明日、愛の風香る。」、熊切あさ美「Bare Self」、芹那「Serina.」、塩地美澄「瞬間」など。

ほか、10代の頃から撮り続けているという俳優・早乙女太一の写真集や公演ブロマイド、東京浅草のストリップ劇場「浅草ロック座」の写真集なども手掛けている。

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