『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』中村昇 編 第一話「ルーツを知る」 集英社社員カメラマンとして活躍を続けた氏のルーツに迫る「日大闘争を目の当たりにして、俺は報道じゃない。女だなって(笑)」

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


最終回のゲストは、集英社の社員カメラマンとして1970年代より『セブンティーン』や『月刊プレイボーイ』、『週刊プレイボーイ』などで活躍を続けた中村昇氏が登場(2008年に定年退職後、現在もフリーのカメラマンとして活動中)。写真とは? ヌードとは? グラビアとは? 印象深い仕事を振り返るとともに、今の思いを聞いた。


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——2021年9月、(中村さんのお弟子さんにあたる)熊谷貫さんから始まった当連載も今回が最終回。ラストに、週プレの、いや集英社の歴史とともにカメラマン人生を歩まれてきた中村さんに是非お話を聞かせていただきたくて。早速ですが、中村さんのルーツからお話いただいてもよろしいでしょうか?


中村 ありがとうございます。ただ、中高時代の話はつまらないから、飛ばしちゃっても良いかな? 本を読んだり、テレビを見たり、女のことを考えたりしながら、ボーッと過ごしていただけで、何もしていなかったから(笑)。


——はい、大丈夫です(笑)。


中村 とはいえ、いちばん初めにカメラを手にしたのは中学1年生の頃でした。朝日新聞社に務めていた親父が、ヤシカの二眼レフを買ってくれたんですよ。僕がおねだりしたわけじゃないですよ? 自分と同じように、将来は報道機関で仕事をしてほしいと思ったんじゃないかな。古いカメラはほとんど売ってしまったけど、これだけは手放せなくて、ずっと大事に持っているんです。


 中村氏が最初に手にしたカメラは二眼レフ「Yashica-A」


——お父さまは新聞記者をされていたんですか?


中村 いや、本社の技術者でした。昔は、有楽町に朝日新聞の東京本社があってね。よく連れて行ってもらった記憶があります。行くと、屋上に鳩がたくさんいるんですよ。現場にいる記者と写真や原稿のやり取りをするのに、鳩を使っていた時代だったんです。いわゆる伝書鳩ってやつですね。実際、その鳩を屋上から飛ばす様子を、何度か見させてもらいましたよ。


——初めてカメラを手にされた中学生の頃は、どのような写真を?


中村 大した写真は何も撮っていないよ(笑)。でも、ロクロクって分かります? 写真がね、正方形(6×6cm判)なんですよ。当時、ロクロクで写真を撮っている人が珍しくて、現像をお願いしていた近所の写真屋さんには気に入られていましたね。都度、親しくしてもらっていました。


単純に、何かを記録することは好きだったんですよね。今も、仕事から作品まで、撮った写真は全てファイリングしてまとめていますし。ただ、機材やらプリントやら、特に昔は写真をやること自体がお金のかかることだったんです。だから、近所では“道楽息子”と呼ばれていました。


——そ、そうだったんですね


中村 じゃあ、もう大学時代の話に進んじゃって良い(笑)? 僕は、日大(日本大学)の藝術学部写真学科に通っていたんだけど、日大には、演劇や映画の学部があるから、横の繋がりもかなり充実していたんだよね。劇を観に行っては、そこに出ている女の子を撮らせてもらって、カメラ雑誌に載せてもらったり、写真展を開いたり。結構、生意気でしょ(笑)。


例えば、これ。六本木にあった自由劇場(1966年開館、1996年閉館)って小劇場のポスターを、大学3〜 4年の時に撮らせてもらっていたんですよ。自由劇場というと、アングラ演劇の走りみたいな場所で、ポスターに並ぶ名前を見てもらうと分かる通り、演出に佐藤信さん、竹邑類さんがいたり、演者に緑魔子さんがいたり、錚々たるメンバーが参加していて。で、こういう劇団に出ている女の子は、お金を稼ぐために、夜、スナックでアルバイトをしているんだよね。そこで口説いて、ヌードを撮らせてもらって、カメラ雑誌に持って行って……みたいなことを、ずーっとやっていました。


 中村氏が撮影を手がけた自由劇場「おんなごろしあぶらの地獄」ポスター(1969年)


——中村さんといえばヌード、ですが、大学生の頃から撮られていたんですね。お父さまの影響を受けて、報道的な写真を撮ろうとは?


中村 僕が日大に通っていた頃、ちょうど日大闘争という学生運動があったんですよ。学生たちがバリケードで校舎を封鎖して、教授たちを追い出して、1年間ほど授業が受けられなかったんです。そんなときに、友達が「お前も見に来いよ」と言うもんだから、カメラを持って学校に行ったんですね。そこで、学生と機動隊が棍棒を持って殴り合いしている姿を目の当たりにして、「俺は報道写真には向かないな」って思っちゃったんです。みんな命がけで戦っているわけだけど、僕が見るべきはそこじゃないっていうか。やっぱり、女を撮るほうが合っている気がしたんですよね。


——なるほど(笑)。


中村 当時は、カメラ雑誌やファッション誌に出ていたサム・ハスキンスやデイヴィッド・ハミルトンなど、海外のカメラマンに憧れていたんです。親父は、報道系に行ってほしかったんだと思うけど、実家の暗室に、ヌード写真を大量に貼り付けていたから、それを見て諦めたんじゃないかな(笑)。特に何も言われなかったですけどね。自由にやらせてもらっていましたよ。


——それで、大学卒業後はどのようにしてカメラマンの道に?


中村 大学4年生の頃、知り合いのカメラマンからの誘いで、当時、集英社で立ち上がったばかりのテレビ雑誌『週刊ホーム』の写真部に入ったんです。周りは、フリーで活躍されている有名なカメラマンさんばかり。報道系の方が多かったのかな。5〜6人くらいが部内にいて、僕は、主に雑用を担当していました。編集者に尋ねられたらすぐ引っ張り出せるように、編集部で管理している写真を整理するとか。たまに、インタビューの撮影を振ってもらいましたね。そういうアルバイトを、1年ほどやっていました。


——早速、集英社に! 最初はアルバイトから入られたんですね。


中村 ただ、僕が大学を卒業する前に『週刊ホーム』が廃刊になってしまったんですよね。写真部にいた有名なカメラマンさんたちは、それぞれフリーに戻ったんですけど、僕はまだ学生だったので、そのまま集英社が拾ってくれて。紹介で『週刊セブンティーン』(現在の『Seventeen』。『セブンティーン』時代は、ファッションに限らず、少女漫画や芸能系、スポーツ系の記事も掲載されていた)の編集部にあった写真部に入れてもらったの。


——ヌードの印象が強い中村さんですが、最初のキャリアは『セブンティーン』だったんですよね。


中村 この時はまだ、集英社の社員カメラマンにはなっていないよ。後にちゃんと試験を受けて、社員になりましたけど。結局のところ、20代前半から40歳くらいまで、『セブンティーン』のカメラマンとして仕事をしていました。表紙とか、一時期ずっと撮らせてもらっていたんですよ(当時は、ハーフ系のモデルが起用されていた)。本当は『プレイボーイ』でヌードが撮りたかったんだけどね(笑)。なかなか簡単には移れなかった。


中村昇 編・第二話は6/16(金)公開予定! 『セブンティーン』で出会った女優・松本ちえこと作り上げた2190日のドキュメント。「カメラマンは、どう生きるか。女優は、どう脱ぐか。グラビアは、スキャンダラスじゃないと」


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中村昇プロフィール

なかむら・のぼる ●写真家。1947年生まれ、東京都出身。

趣味=ゴルフ、音楽・映画観賞

1972年、集英社の社員カメラマンに。2008年に定年退職後も、フリーで活動。

主な作品は、松本ちえこ『愛があるから・・・あなたへ』、郷ひろみ『やさしすぎて』、瀬戸朝香『夢駆』、井川遥『PREMIUM』、石田ゆり子・石田ひかり『ゆり子・ひかり きせき 1987‐1996』、相武紗季『10代 ~AIBU LOVE LIVE FILE~』、橋本マナミ『あいのしずく』、奥山かずさ『AIKAGI』ほか、東欧美女のヌードを撮り続けた『ロシア・天使の詩』など。

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