『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』中村昇 編 第二話「思い出を知る」 女優・松本ちえことのスキャンダラスな2190日「目の前の女性を、カメラマンがどう脱がすか。その関係性を撮るのがグラビアだったんですよね」

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


最終回のゲストは、集英社の社員カメラマンとして1970年代より『セブンティーン』や『月刊プレイボーイ』、『週刊プレイボーイ』などで活躍を続けた中村昇氏が登場(2008年に定年退職後、現在もフリーのカメラマンとして活動中)。写真とは? ヌードとは? グラビアとは? 印象深い仕事を振り返るとともに、今の思いを聞いた。


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——大学卒業後、『週刊セブンティーン』(現在の『Seventeen』)の専属カメラマンとしてキャリアをスタートされた中村さん。「本当はヌードが撮りたかった」そうですが、40歳頃までは、ずっと『セブンティーン』でお仕事されていたんですよね。


中村 そうですね。当時の『セブンティーン』は、今よりもカルチャー色が強くて。表紙は10年近く撮らせてもらいました。あとは野球の取材に行ったり、郷ひろみさんや西城秀樹さんなど、当時のアイドルを撮らせてもらったり。それはそれで楽しかったですよ。並行して、当時は、写真展や『コマーシャル・フォト』といったカメラ雑誌への寄稿なども積極的に行なっていました。僕らの時代のカメラマンは、自分で現像してプリントした写真を、写真展やカメラ雑誌で発表することが命だったんです。とはいえ、個人の写真展をやっている人は少なかったけど、僕は、銀座や原宿など、メイン通りのギャラリーを貸し切って、写真展をやっていましたね。


——中村さんは社員カメラマンだったわけですけど、そういった外での活動は問題なかったんですか?


中村 ありがたいことに、会社が許してくれたんだよね。まぁ、作品を展示しても、僕は少しも儲からないから(笑)。「集英社の宣伝になるなら、どんどんやってくれ」って感じでした。僕以外に、外で写真を発表している社員カメラマンさんもいなかったし。


——なるほど。作品撮りでは、やはりヌードを?


中村 もちろん。やっぱり僕は『プレイボーイ』でヌードが撮りたかったからね(笑)。当時の『プレイボーイ』のグラビアは、スキャンダラスな写真が面白かったんですよ。ただモデルさんを綺麗に撮るんじゃなく、目の前の女性をカメラマンがどう脱がすか、その関係性を撮るのがグラビアだったんですよね。だから、自分で女の子を口説いて、ロケーションを考えて、ひたすらヌードを撮っていました。


——「中村さんだから、脱ぐ」。モデルさんにそう思わせてこそ、スキャンダラスで生々しい写真が撮れると。


中村 そうですね。ヌードを撮らせてもらった子の中には、後に結婚式まで呼んでくれた子もいました。それくらい、関係性を育んで撮っていましたよね。当時、特に深い関係性で作品を撮らせてもらったのは、女優の松本ちえこさんでした。『セブンティーン』の撮影で、何人かいる中のひとりとして、彼女がまだ15〜16歳だった頃に撮らせてもらったのが最初の出会いで。その後、彼女は、資生堂のバスボン石鹸のCM(1976年)で一躍有名になったんですよね。


——週刊プレイボーイ特別編集『愛があるから・・・あなたへ』(1981年)として、写真集も発売されていますよね。『セブンティーン』で出会われたはずが、なぜ『プレイボーイ』から刊行されているんですか?


 

週刊プレイボーイ特別編集 松本ちえこ写真集『愛があるから・・・あなたへ』(1981年)


中村 まず発端としては、『セブンティーン』の撮影で彼女とコミュニケーションをとっていると、どうもウマが合うというか。モノづくりへの価値観が近いような気がして、それから完全プライベートで、定期的に写真を撮らせてもらうようになったんです。ふたりで休みを合わせて、近郊へ出かけて。プライベートなんだから、当然、マネージャーは付いて来なかったですよ。だからこそ、彼女に何かあれば、僕が全責任を負う覚悟だったし、身銭を切ってやっていた。その関係性で、ヌードも撮らせてもらって……。


それで、撮った写真を何度かカメラ雑誌に載せてもらっていたら、『週刊プレイボーイ』の編集者が嗅ぎつけてきたんです。「どうしてウチ(集英社)の社員カメラマンが、他誌でこんな写真を出しているんだよ!」って。ちえこさんとグアムに行こうとしていた直前に、現金50万円が入った袋を渡されて、「領収書要らないから、これでグアムに行って。絶対に『プレイボーイ』以外で発表しないでくれ」って言われたんだよね。


——す、スゴい話ですね! それくらいスキャンダラスな写真だった、ということなんでしょうけど。


中村 その後、『プレイボーイ』の編集者と一緒にハワイへ行って、改めて撮り下ろしをさせてもらいました(1981年『週刊プレイボーイ No.2・3』掲載)。ヘアメイクとスタイリストにも、付いてもらってね。そのタイミングで、これまでプライベートで撮りためた写真をまとめて、一冊の写真集として出させてもらったのが『愛があるから・・・あなたへ』なんです。僕がいちばん初めに手掛けた写真集、ということになりますね。


写真集の帯に「2190日の真実」とあるように、結果的に6年ほど撮らせてもらっていたんですよね。10代半ばから20歳を迎えるまで。女性として、年々変貌するちえこさんの姿は、今見返しても、本当に綺麗だと思う。古い写真集だけど、機会があれば是非、手に取って見てもらいたいですね。


——まさしく、中村さんと松本さんの関係性がうかがえる写真集で、スゴくドキドキしました。写真とともに添えられている文章も素敵で。40年近く前の作品というのに、匂いや温もりが伝わってくるようでした。


中村 余談ですが、ちえこさんとの作品撮りは、『月刊プレイボーイ』(米国『プレイボーイ』の日本版として集英社から刊行されていた雑誌。同じプレイボーイでも『週プレ』とは全く別の編集部であり、内容も異なる)でも特集を組んでもらったんですよ(1979年『月刊プレイボーイ 12月号』)。嬉しかったですね。


 

松本さんのグラビアが掲載された1979年『月刊プレイボーイ 12月号』(左)、1981年『週刊プレイボーイ No.2・3』(右)


——すべて『セブンティーン』時代のお話だというから驚きです(笑)。


中村 当たり前ですけど、『セブンティーン』のお仕事もちゃんとやっていましたからね。それで、80年代の終わり頃に、ようやく『プレイボーイ』への異動が叶いました。にも関わらず、その1年後に、集英社スタジオが出来て(1988年創立)、機材の搬入からスタジオマンの教育まで、スタジオとして経営していくための立ち上げを手伝ってくれと言われて……。


——集英社スタジオは、ファッションの撮影やブツ撮りなど、集英社の各編集部が頻繁に利用している自社スタジオ。週プレも、度々お世話になっています。


中村 当時は『non-no(ノンノ)』とか、ファッション誌が盛り上がっていた時代だったから、なるべく効率良く撮影を回すために、会社が立ち上げたんだよね。ただ、建物はできても、設備を整えて、動けるスタジオマンを育てないと、意味がないじゃない? 事故が起こるのもマズいしさぁ。


——そ、そうですよね。では、しばらくは集英社スタジオの管理を?


中村 一応、『プレイボーイ』もやらせてもらっていましたけど、基本的には、スタジオ周りの仕事がほとんどでした。スタジオマンを面接して、教育して、就職の世話までしていましたよ。結果的に、9年間ほど立ち上げに携わったのかな。そのとき、スタジオマンとして入社してきたのが熊谷(貫)くんと小塚(毅之)くんだったんです。二人とも、今となっては立派なカメラマンですけどね。


中村昇 編・第三話は6/23(金)公開予定! 東欧美女のヌードシリーズの裏側を語る「企画が始まったばかりの頃は、現地の女の子に『こんないやらしい雑誌はイヤだ』と言われました(笑)」


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中村昇プロフィール

なかむら・のぼる ●写真家。1947年生まれ、東京都出身。

趣味=ゴルフ、音楽・映画観賞

1972年、集英社の社員カメラマンに。2008年に定年退職後も、フリーで活動。

主な作品は、松本ちえこ『愛があるから・・・あなたへ』、郷ひろみ『やさしすぎて』、瀬戸朝香『夢駆』、井川遥『PREMIUM』、石田ゆり子・石田ひかり『ゆり子・ひかり きせき 1987‐1996』、相武紗季『10代 ~AIBU LOVE LIVE FILE~』、橋本マナミ『 あいのしずく 』、奥山かずさ『AIKAGI』ほか、東欧美女のヌードを撮り続けた『ロシア・天使の詩』など。

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