『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』熊谷 貫 編 第二話「思い出を知る」 伝説の写真集・広末涼子『NO MAKE』を語る

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


新コラム、初回ゲストは、今や伝説となった広末涼子『NO MAKE』を始め、数多くの写真集を担当し、さらに過去10年で一番多くの週プレデジタル写真集も輩出してきたカメラマン、熊谷 貫氏をむかえ、これまでの人生を振り返っていく。

 

――前回はカメラマンになるまでのルーツをお伺いしました。通われていた写真学校を卒業されてからは、どういったご活動をされていたんですか?


熊谷 卒業後は集英社スタジオに入って、さらに実践的なスタジオ技術を勉強させてもらいました。在学中、見学のつもりで履歴書を持って行ったら「いつから来られる?」と言われて、そのままスタジオマンになることができて。確か1月頃だったと思います。卒業前にもかかわらず、卒業単位は取り終えていたのですぐに働き始めました。


――順調なスタートですね。スタジオマン時代は、どのような仕事をされていたんですか?


熊谷 集英社スタジオですから、集英社の各誌の撮影を手伝っていましたよ。ファッション系や物撮りの撮影が多かったですかね。料理写真の撮影現場にもよく入らせてもらっていました。料理の先生が手際良く作った料理をカメラマンの人がささっと撮ったあと、「冷めないうちにどうぞ」ってスタジオマンの僕も含めてみんなで和気あいあいと食事をするんですよ。最高の現場ですよね(笑)。だからアシスタントに誘っていただいた時には料理カメラマンになることも考えましたけど、そのときはまだスタジオに入って1年ほどしか経っていなかったから、その後も満遍なく現場を経験させてもらっていました。


――そこからどのような流れでプロのカメラマンになられたんですか?


熊谷 ヤンジャン(『週刊ヤングジャンプ』)編集部が、社内スタジオのスタジオマンから契約カメラマンを採用するという話があったので、面接を受けたんです。無事に合格し、ヤンジャンの契約カメラマンとしてキャリアをスタートさせました。仕事を請ける以上プロとしてやってはいたものの、感覚的にはまだ見習いって感じでしたけどね。そのときは漫画資料としてモチーフになった街並みや建物、車なんかを撮りに行ったり、インタビューページではウィル・スミスを撮ったりしたこともありました。


――ヤンジャンと聞くと女の子のグラビアを想像していたんですが、雑誌全体の撮影をされていたんですね。



熊谷 そうですね。女の子のグラビアを撮るきっかけとなったのは、やっぱり涼ちゃん(広末涼子)のNO MAKEですね。


――『NO MAKE』は1998年に発売された広末さんの2nd写真集で、当時25万部を超える大ヒットを記録した伝説級の写真集です(2018年には、週プレ グラジャパ!にてデジタル版も配信)。ヤンジャンでの連載から始まり、「ヒロスエブーム」真っ只中の広末さんに500日間密着されたんですよね。


熊谷 そうそう。当時は涼ちゃんがめちゃくちゃ忙しい時期で、ドラマやCM、ラジオなどいろんな現場に同行させてもらいました。最初はレコーディング現場に密着して撮影をさせてもらったんですけど、その1回目を誌面に載せたところ、当時ヤンジャンで不動の人気を誇っていた漫画『サラリーマン金太郎』にアンケートで勝っちゃったんですよ(笑)。僕が凄かったというより、涼ちゃんが凄かったんですけどね。


――当時は広末さんの連載を読むために、普段ヤンジャンを買わない人までもが購読していたと聞きました。


熊谷 当時の涼ちゃんは、それほど凄まじい人気でしたから。家族以上に長い時間一緒にいましたけど、ちょっとした隙間時間でもカメラを向ければ何か表情を見せてくれるような子でしたね。撮ってるカメラマンが自然とうまく見えてしまうほど、フォトジェニックな魅力がありました。


――やはり熊谷さんにとっても忘れられない仕事のひとつですか。


熊谷 というよりも、僕のカメラマン人生に大きな影響を与えた撮影でした。そもそもこの『NO MAKE』の撮影依頼が僕に来たのは、僕が独立に向けてひとりのボクサーに密着したドキュメント写真を撮っていたことを担当の方が覚えてくれていたからなんですよ。人気連載でしたし、多くの方に写真を見てもらえる機会になりました。もしこの連載がなかったら、今みたいに女性をメインに撮影するカメラマンにはなっていなかったかもしれないし、人生そのものが変わっていたと思います。


――熊谷さんのカメラマン人生にそこまで影響を与えていたとは……。


熊谷 それに『NO MAKE』でいろんな現場に密着させてもらったことは、今でも役に立っています。例えば、撮影でご一緒した女の子がドラマに出演中だとしたら「今はこういう状況で、こんなことを考えているんじゃないかなぁ」とある程度想像することができるんですよ。涼ちゃんの仕事ぶりを近くで見ていたからこそ、理解してあげられる部分もある気がしています。


――それは女の子としても嬉しいと思います。


熊谷 あと、どうしてもスケジュールの都合が合わない場合には「少しの時間でも空きがあったら、こんな写真が撮れますよ」と編集さんとマネージャーさんに提案することもあって。それもまた、目まぐるしいほど多忙な涼ちゃんに密着したからこそできる提案ですよね。もちろんロケに行けるに越したことはないのですが「現場と現場の隙間時間でも良ければ……」と撮影が実現することもありますし、いまだに『NO MAKE』での経験が活きていると感じる瞬間が多々あります。


――『NO MAKE』のほかに、撮影時の思い出があるデジタル写真集は何かありますか?



熊谷 週プレ グラジャパ!には、僕が撮影したデジタル写真集が全部で85タイトル(※2021年8月現在)あるんですよね。思い出に残っていると言えば、どの現場も覚えていますよ。撮った時期や場所、その時使ったカメラのことまで全部。そのなかで強いて選ぶとしたら里帆ちゃん(吉岡里帆)の光と風と夢。は印象的な現場でしたね。


――これは鳥取砂丘で撮られたグラビアですね。


熊谷 そうです。このグラビアを撮影する前から、写真家の植田正治さん(※「植田調(Ueda-cho)」として知られる鳥取砂丘を背景にした作品を多く残した写真界の巨匠)に憧れて、何度か鳥取砂丘にグラビアを撮りに行っていたんですよ。でも毎回天候に恵まれなくて、この日の撮影も最初は小雨が降っていました。「今回もダメかなぁ」なんて思っていたら、午後奇跡的に晴れて、とんでもなくドラマチックな夕日が出たんです。ただ、雨雲を飛ばす勢いの強い風が吹いていたから、痛いくらい砂が飛んでくるんですよね。カメラも壊れてしまうんじゃないかと思うほどでしたよ(笑)。


――あの神秘的で美しい夕日のカットが、そんなに過酷な状況下で撮られていたとは。


 

熊谷 事前に里帆ちゃんには「砂丘の斜面をひたむきに駆け上がることで、夢を掴み取る姿を表現してほしい」と伝えていました。そういう意味ではいい風だったのかもしれないけど、風は強いし耳にも砂が入ってくるしで声が聞こえにくいだろうから、普段だったら「そこ登ってみて」って優しく言うところを、思いっきり「登れー!」って叫んだんですよ(笑)。里帆ちゃんも向上心があって何事にも一生懸命な子だから、勢いよく斜面を駆け上がってくれて。その甲斐あっていい写真が撮れましたし、大変さも含めて思い出深い撮影になりましたね。ちなみにそのときのカメラは今も使っていますよ。あの状況に耐えられたんだからと、頑丈な大エースとして活躍してもらっています(笑)。


次回、熊谷貫編・第三話は2021年9月17日(金)公開予定! 初グラビアの女の子にかけた言葉とは?


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熊谷 貫プロフィール

くまがい・つらぬく●写真家。1968年生まれ、神奈川県出身。

趣味=歴史のifを考えること。

集英社スタジオを経て、中村昇氏に師事し独立。

主な作品に、広末涼子『NO MAKE』、石原さとみ『たゆたい』、木村多江『秘色の哭』、新垣結衣『まっしろ』、三浦春馬『Letters』、川島海荷『青のコリドー』、小嶋陽菜『こじはる』、橋本愛『あいの降るほし』、浅田舞『舞』、馬場ふみか『色っぽょ』、小宮有紗『Majestic』など。また、俳優やアイドルの写真集以外にも、元ボクシング世界チャンピオン畑山隆則『ハタケ』など、性別やジャンルを問わず、主体に迫るドキュメンタリー性の高い作風で人気を誇る。


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