2021年11月12日 取材・文/とり
あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。
第3回目のゲストは、安達祐実『私生活』、今田美桜『生命力』、大原優乃『吐息』、川津明日香『明日から。』などのグラビア写真集のほか、俳優やコスプレイヤーの写真集も手掛けている桑島智輝氏。商業カメラマンとして、その幅広い活動にかける想いを聞いた。
――前話では、カメラマンを目指すまでのルーツをお聞きしました。武蔵野美術大学(武蔵美)のデザイン科に進学し、同級生がデザイン事務所に就職を決めるなか、桑島さんはカメラマンを目指すようになったと。
桑島 はい。ただ、武蔵美に写真学科はなかったし、カメラマンになった卒業生もいなかったから、どうしたらカメラマンになれるのか全く分からなくて。就職課には、「写真学科のある日本大学芸術学部(日芸)の就職課に相談してみたら?」とか言われるし(笑)。一応、言われるがまま日芸の就職課を訪ねてみたら、案の定追い返されました。
――日芸の生徒じゃないですからね(笑)。
桑島 就職課も当てにならないなぁと困っていたところ、同じゼミにいたブツ撮りのカメラマンを目指している男の子が、いろいろと話を聞かせてくれて。その子は、既にカメラマンの手伝いをしにスタジオに通ったり、カメラマンの求人を探したり、自分より2歩も3歩も先に進んでいたんですよね。それで話を聞く感じ、まずは写真スタジオに入るのがよさそうだということが分かって。ちょうどブツ撮り専門のスタジオがアルバイトを募集していたから、そこに応募して、大学卒業後は、そのままそこに就職させてもらいました。
――なぜブツ撮りのスタジオに?
桑島 本当は、第一希望のスタジオがあったんですよ。でも、面接に必須だったポートフォリオを持っていかなかったからか、落とされちゃって。というのも、その頃は作品撮りもしていなかったし、写真を組む技術もなかったので、何気なしに撮りためた写真を感覚で一冊にまとめるんですけど、完成度の低いものにしかならなくて。納得いくポートフォリオにならなかったから、あえて持っていかなかったんです。一次は許してもらえても、二次では許してもらえず……。まぁ、当然の結果ですよね(笑)。
――なるほど。それで、アルバイトから入れるスタジオに足を運んだと。
桑島 そこは、料理系の撮影が多いスタジオでした。例えば、ケーキ屋さんのカタログ用に、冷蔵庫みたいに冷えたスタジオで、ベンチコートを羽織って、ひたすらケーキを撮る現場がありましたね。基本的に、一回セットしたライティングを動かすことはなかったから、僕の仕事といったら、撮り終えたケーキを下げて新しいケーキを持っていく、言わば運搬係でした。「撮影が終わったら、好きなケーキ持って帰っていいよ」なんて言われて、最初は「マジっすか!?」って喜んでいましたけど、だんだんケーキすらも見たくなくなって(笑)。スタジオに就職できたとはいえ、果たしてここでの頑張りが自分のやりたいことに繋がるんだろうか?と考えると、そうじゃない気がしてきたんですよね。
――確かに、そうですよね。
桑島 そんなある日、深夜のスタジオに残って、いろんなカメラマンのホームページを見漁っていたら、HIPHOP系のアーティスト写真をめちゃくちゃカッコよく撮っているカメラマンを見つけて。しかも、ちょうどアシスタントを急募していたんです。それが、僕の師匠にあたる鎌田拳太郎さんだったんですよね。早速メールを送って、弟子入りが決まって。アルバイト時代からお世話になったブツ撮りのスタジオを退職しました。
――HIPHOP系ですか。ブツ撮りのスタジオマンだったときとは、劇的に現場環境が変わりそうですね。
桑島 鎌田さんは当時かなりの売れっ子カメラマンだったから、現場数も相当でした。HIPHOP系だけじゃなく、ストリート系のファッション誌も撮っていましたし、僕がアシスタントにつく前はモーニング娘。の『LOVEマシーン』のジャケ写も撮っていたそうですよ。鎌田さんは 、HIPHOPとアイドルという真逆のモチーフを撮るために、どっちつかずにならないようバランスを取るのがとてもうまくて。そういう仕事の棲み分け方も含めて、鎌田さんのもとで学んだことは、いまだに役に立つことばかりですね。
――他にはどんなことを学ばれたんですか?
桑島 鎌田さんがどういうライティングで撮影しているのか、そのセット図とポラロイド(フィルムカメラの時代は、現場で写真の確認ができないため毎回テストを兼ねてポラロイドを撮影していた)をノートにまとめていたんですよ。細かいことはよく分かっていなかったものの、実際に自分がライティングを組むときにものすごく参考になったので、やっていてよかったなぁと思いましたね。とはいえミスは多いし、遅刻はするしで、決してデキるアシスタントではなかったです。特に遅刻がヒドくて、罰金制度が作られたほどですから(笑)。怒られながら、ときに褒めてもらいながら、2年間のアシスタント生活を駆け抜けましたよ。
――その後は、どのような活動を?
桑島 それが、アシスタントをやり抜いた達成感から、しばらく仕事をする気になれなくて。1週間ほど、まるで余生を過ごすかのように、近所を流れる小川をボーッと眺めていました。ただ、ふと「そういえば、もう卒業したから今月の給料は振り込まれないよな?」ってことに気がついて。どうにかしてお金を稼がなきゃってことで、コンビニに並んでいる無料の求人誌を見て、建設中の老人ホームに新品の介護用便器を運ぶべく、1階から9階まで階段で昇り降りするという肉体労働のアルバイトをはじめました。
――なぜ、そんな過酷な仕事を!? カメラマンの仕事は探さなかったんですか?
桑島 さすがに僕も「このまま肉体労働を続けるのはマズいぞ」と思ったので、友達に相談して、ロケアシスタントのアルバイトを紹介してもらいました。時代的に、デジタルカメラが導入されはじめた頃だったので、パソコンが触れず苦労しているカメラマンが多かったんですよ。でも僕は、デザイン科の大学に通っていたから、PhotoshopやIllustratorなどの編集ソフトをある程度扱えたし、結構お仕事をもらえて。って、これもカメラマンの仕事ではないですね(笑)。
――そこからカメラマンとしての初仕事にどう繋がっていくんでしょうか?
桑島 当時は、どちらかというとファッション系のカメラマンになりたかったから、ファッション系の作品撮りをまとめて、原宿系のファッション誌に営業しに行きましたが、全然引っかからないんですよね。で、鎌田さんのアシスタントを卒業した後も、一応“預かり”という形で鎌田さんがいた事務所に所属させてもらっていたので、事務所の社長に相談したら「桑島くん、ファッション向いてないよ」ってド直球に言われて。それは、ファッションは引きで服を取らなきゃいけないのに、僕は寄りで表情ばかり撮っていたから。向いてないと言われたのはショックだったけど、ここでようやく「自分が撮りたいのは人物なんだ」とハッキリ分かったのは大きな転機でしたね。
――改めて、目指すべき方向性が見つかったんですね。
桑島 そう思った矢先に、アシスタント時代のご縁でハロー!プロジェクトの生写真を撮って欲しいと依頼が来たんですよ。中野サンプラザの踊り場にセットを組んで、コンサートの合間に衣装を変えながら、ひたすら写真を撮るっていう。実は、この生写真が僕のカメラマンとしての初仕事なんですよ。
――そのご経歴は全く知りませんでした。
桑島 でも、やっぱり雑誌の仕事がしたいじゃないですか。それで、今度はテレビ誌に営業しに行ったら、『TV LIFE』(ワン・パブリッシング)で撮らせてもらえることが決まって。そこでは、アシスタント時代にとっておいたノートを参考に、鎌田さんのライティングを真似て撮影していたんですよ。HIPHOP系のアーティストを撮る用のライティングだったから、テレビ誌的には斬新だったんでしょうね。カッコいい雰囲気の写真に仕上がることが多かった影響もあって、次第に、男の子の撮影依頼がぐんと増えました。で、男の子を撮るならやっぱり『JUNON』(主婦と生活社)だろうと、また営業に行って。
――桑島さんといったら『JUNON』のイメージも強いです。今でもよく、俳優さんや男性アイドルのグラビアを撮られていますし。
桑島 僕がはじめて写真集を撮らせてもらったのも『JUNON』でした。俳優の溝端淳平くんの1st写真集『熱風少年』(主婦と生活社)ですね。溝端くんは、僕が『JUNON』で撮りはじめる前の年くらいに「JUNONスーパーボーイコンテスト」でグランプリを獲得した子で。誌面用のグラビアを撮らせてもらったときに、担当の方がその写真をすごく気に入ってくれて、写真集まで撮らせてもらえることになったんですよね。僕もまだ20代後半だったんですけど、あの頃は20代で写真集を担当するカメラマンなんてほとんどいなかったから異例の抜擢だと言われて、かなり気合が入りましたよ。
――女の子のグラビアはいつ頃から撮るようになったんですか?
桑島 2008年に発売された『アップトゥボーイ』(ワニブックス)のリニューアル号を見てからですね。女優さんやグラビアアイドルの女の子100人分の撮り下ろしが載っている号で、グラビアごとに企画が工夫されていて、すごく面白かったんですよ。それで「自分もここで撮ってみたい」とワニブックスに営業に行って、まずインタビューページの写真から撮らせてもらって。本格的に女の子のグラビアを撮ったのは、AKB48(当時)のきたりえ(北原里英)が最初だったかなぁ。それは確か、水着じゃなかったはずですけど。
――男の子のグラビアと女の子のグラビアだと、撮り方も変わりますか?
桑島 そもそもグラビアの撮影方法は、フリースタイルですからね。男の子でも、女の子でも、技術がいりますよ。女の子の水着グラビア写真集でいうと、AKB48(当時)の篠田麻里子さんの『SUPER MARIKO』(ワニブックス)がはじめてでした。その頃は、グラビアの魅力的なポージングや撮り方がちゃんと分かっていなかったから、胸やお尻などのボディラインをきれいに見せるのがとにかく難しくて。打開策として、趣味で集めていた雑誌のスクラップをA4の紙に並べたものをプリントして、現場に持っていったんですよ。「この衣装のときはこのポージングで……」といった具合に、そのスクラップをイメージボードに切り貼りして。
――マニュアルに沿う形で撮影されていたんですね。
桑島 僕にグラビアを撮る技術がなかったがゆえの打開策でしたが、篠田さんにも分かりやすく要求を伝えられたし、現場の動きもスムーズになったから、水着グラビアの現場に慣れるまでは、毎回スクラップを持参していました。グラビアというと、自由に動く姿を撮るものだってイメージがあると思います。でも、当時の僕の感覚的には、既に形のあるポージングをなぞってもらう方がハマりやすかったんですよね。それは、僕に依頼が来る水着グラビアは、特殊なのが多かったから。『SUPER MARIKO』も、背景が全部合成ですからね。その後、ワニブックスでお世話になっていた編集さんづてに、『ヤングジャンプ』でAKB48のグラビアを毎週のように撮らせていただくことになるんですけど、そのときも毎度スクラップを持参して撮影していました。
――AKB48が国民的アイドルグループとして人気を集めていた2010年代の頃の話ですね。かわいくて楽しげな雰囲気のグラビアが多かった印象があります。
桑島 あの頃のAKB48はとにかく大忙しだったから、常にスケジュールがカツカツで。毎週決まった曜日に、とあるスタジオを貸し切って、いろんな雑誌がまとまってグラビアを撮っていたんですよ。僕は『ヤンジャン』の人としてその場にいたので、常に他誌との差別化を意識していましたね。編集の方が考えたアイデアに対して、追加でネタを提案することもあったし、毎回どの雑誌よりも強い絵を撮ってやるって気持ちで臨んでいました。それに、現場ではスピーディーさが求められていたから、持参したスクラップも大いに役立ちましたね。あんなふうに撮影することはもうないだろうから、今となってはいい思い出です。変わったコンセプトにもいろいろ挑戦できたし、本当に楽しかったですね。
――週プレでグラビアを撮られるようになったのも、これくらいの時期からですか?
桑島 そうですね。『ヤンジャン』で撮ったAKB48のグラビアは毎回派手だったから、多くの人の目に留まったようで、週プレに限らず、さまざまなグラビア誌に呼んでいただけるようになりました。ナチュラルなグラビアを撮ってほしいと依頼が来ることもありましたが、『ヤンジャン』のイメージに引っ張られた依頼がとにかく多かったですね。それこそ、週プレではじめて撮ったグラビアは、吉木りささんと初音ミクのコラボものでした。やっぱり特殊系ですよね(笑)。
桑島智輝編・第三話は11/19(金)公開予定! 写真集は祭り! 傑作・安達祐実『私生活』での挑戦とは?
桑島智輝プロフィール
くわじま・ともき●商業カメラマン。1978年生まれ、岡山県出身。
趣味=DJ、ラジオDJ
写真家・鎌田拳太郎氏に師事し、2004年に独立。2010年、株式会社QWAGATAを設立。
主な作品は、今年10月に発売された川津明日香1st写真集『明日から。』のほか、篠田麻里子『SUPER MARIKO』、安達祐実『私生活』、指原莉乃『猫に負けた』、今田美桜『生命力』など。溝端淳平『熱風少年』や新田真剣佑『UP THE ROAD』などの男性タレント写真集や広告写真も多く手がけている。また、2014年に女優・安達祐実と結婚し、その生活の様子を収めた写真集『我我』(2019)と夫婦旅の記録を収めた『我旅我行』(2020)を発表したことも話題となった。