『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』西條彰仁 編 第二話「思い出を知る」 アダルト誌から漫画誌へ。さまざまな出会いから知っていく“写真の本質”

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


第4回目のゲストは、先月発売された水湊みお1st写真集『みなとみないと』をはじめ、アイドルからセクシー女優まで、多くの女性タレント写真集を取り下ろしてきた西條彰仁氏。サッカー少年だった学生時代から、グラビアカメラマンに辿り着くまでのキャリアを聞いた。


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――サッカー少年だった高校時代から一変、大学入学以降は、旅行記に影響を受けて各国を旅したり、ニューヨークのアートに憧れて美術大学を目指したり。第一話では非常に面白いルーツを聞かせていただきました。その後は、どんな活動をされていたんでしょうか?


西條 フリーでさまざまなジャンルのカメラアシスタントをやらせていただきました。コマーシャル系の撮影に行くことが多かったので、基本はスタジオワークが中心でしたね。ただ、カメラマンとしてのキャリアは全くない状態。どうにか仕事がもらえないかと、現場でよく接してくれていたディレクターや編集の方々に、旅先で撮った写真を見てもらっていました。「いい写真ですね」と言っていただくも、それが仕事になるわけではありませんでしたが。


――なかなか難しそうですね。


西條 それでも繰り返していくうちに、ひとりの編集さんが「もしうちの雑誌で撮りたいなら、一度、現場を見てみたら?」と声をかけてくださって。そこで紹介されたのが、当時、主にグラビア誌で活躍されていた藤田健五さんというカメラマンだったんですよね。正直なところ、カメラマンの仕事のなかでもグラビアの選択肢は全くなかったし、何も知らない業界だったから、失礼な話、軽く見ていた部分もあって。でも、実際に現場を見させていただくと、想像以上に興味深い世界だったんですよね。これまで僕がやってきた現場は、基本的にスタジオでライティングをセットして撮るものでしたけど、グラビアは、ライティングもなしに自然光を使って、その場の空気ごと女の子の姿を写していて。スピード感やライブ感などが全く違う世界だったので、スタジオで学んできた常識が覆された感じでした。「照明も使わず、こんな緻密な光で写真が撮れるんだ」って。現場について行くたび、自然光を使ったグラビアの奥深さにどんどん魅了されていきました。それで3年ほど、藤田さんのアシスタントにつかせていただくことになったんです。


――アシスタントにつかれたときには、むしろグラビアカメラマンになりたい気持ちが芽生えていたんでしょうか?


西條 いや単純に、自然光で人物を撮るというスタイルが当時の僕にとって新鮮だったから、興味が湧いたんです。自分で真似て撮ってみても、全く思う絵が撮れないし。できるようになるまで、やってやろうって感じでしたね。その道に進む覚悟は、特になかったです。


――そこでもやはり、未知なる世界への好奇心が働いたんですね(笑)。アシスタント時代はどんなことを?


西條 藤田さんはとても繊細で、厳しい方でした。最初は「お前は機材の置き方が良くない」と、荷物すら持たせてもらえなかったほどです。僕もスタジオで働いていたし、機材を扱うときは、それなりに慎重になっていたつもりでしたけど全然ダメだと。アシスタントにつかせてもらったばかりの頃は、替えのフィルムを持っておいて、藤田さんに渡すくらいのことしか出来ませんでした。それに、スタジオを出たばかりの人間がグラビアの現場に行ったって、ついていくのがやっとですよ。天候は言うことを聞かないし、予測不可能なことばかり起こるし。今までやってきたことが全然通用しないですから。


――もともとニューヨークのアートに憧れていた西條さんが日本のグラビアを突き詰めるようになるって、面白い話ですよね。写真表現としては真逆じゃないですか。


西條 アシスタントを終えたらもう一度ニューヨークに行こうと思ってましたが、家庭の事情でそんなこと言ってられなくなったんですね。とにかく仕事をして、ちゃんと稼がなきゃならない状況になって、はじめてカメラマンになる覚悟が決まりました。仕事をすると言っても、アシスタント時代に親しくなった人たちしか頼れる人がいなかったですしね。やるからにはトップを目指すつもりで。改めて、グラビアで活躍するカメラマンさん達の写真集や雑誌を身漁って、猛勉強しました。


――本格的にカメラマンとしてのキャリアがスタートしたわけですね。


西條 はい。と言いつつも、最初の頃はグラビアより取材系が多かったですね。例えば、渋谷を歩いている女子高生に声をかけて、ひたすら写真を撮るとか(笑)。


――えっ、それはどんな仕事だったんですか?


西條 当時、コギャルブーム(女子高生ブーム)で、制服を着崩して、ルーズソックスを履くのが若い女の子の間で流行っていたんですよ。それにちなんだ取材で。全部ひとりで行かされたから、レフ板を持つ人もいなければ、女子高生に答えてもらうアンケートも僕がやっていました(笑)。しかもその頃は、露出の調整がとにかくシビアなポジ(フィルム)の時代。たくさん声をかけて写真を撮ったのに、何も写ってなかったら怖いじゃないですか。だから、自然光で確実に撮れる場所を探しながら撮っていましたね。


――西條さんにも、そんな時期があったなんて……。


西條 ガッツリとしたグラビア仕事でいうと、それから約1〜2年後。アダルト系の雑誌で、セクシー女優さんの撮り下ろしを任せてもらうようになったのが最初だったと思います。特に思い出深いのは、とある企画女優さんを撮影させてもらったこと。まだ無名にもかかわらず、すごくかわいらしい子で。いわゆるヘアヌードだったんですけど、ドキュメンタリーチックな雰囲気を意識して撮ったんですよね。そしたら、ある出版社の方から「女の子もかわいいし、写真もいいし、もう少し撮り足してみてはどうですか?」と連絡があって、さらに撮影を重ねることになって。最終的に、一冊の写真集にしていただいたんです。これが僕にとって、初めての写真集になったんです。余談ですけど、企画女優だったその子は、僕が撮った数年後に「高樹マリア」という名前で超人気セクシー女優になりましたよ。


――すごい話ですね!高樹さんといえば、当時のセクシー女優のなかでもトップレベルの存在。セクシー女優を引退された後も、地上波のドラマにたくさん出演されていました。


西條 そうです。ビックリしましたよ(笑)。そういう意味でも思い出深いのですが、さらに、この写真集をきっかけにいろんな出版社の方から連絡をいただいて。水着グラビアを撮ることが増えたのも、この辺りからなんですよね。だからこの写真集は、仕事の幅をグッと広げてくれた大切な一冊でもあります。


――そこから、グラビア誌のお仕事が増えるんですね。


西條 はい。それでもまだ、仕事は少なかったですけどね。ただ、この頃に出会ったとある編集の方には、感謝してもしきれないくらいお世話になりました。現に、僕をグラビアカメラマンとして育て上げてくれたのは、その方だと思っているくらいです。というのも、毎月のように撮影に呼んでいただいたのに、毎回、猛烈なダメ出しをされていて。僕が撮った写真が誌面に載ることは、ほぼなかったですし、認めてもらえない悔しさに、ストレスを感じることもありました。それこそ当時は、その方が言う「いい写真、うまい写真」が全く理解できず、与えられた課題を乗り越えるのも相当ハードルの高いことだったのですが、なぜか、この方が僕に話してくれることには嘘がない気がして、自然と信用することができて。直感的に、ここでの課題をクリアすることが成長に繋がると思ったので、言い訳もせず、とにかく必死になってついて行くことだけを考えていましたね。


――その編集者の方からは、どんなことを教わったんですか?


西條 いちばん覚えているのは、撮影合宿ですかね。要は10日間、レンタカーを自走しながら、京都市内から丹後地域、滋賀の琵琶湖、福井の敦賀、鳥取砂丘を転々として、ロードムービーチックにずっと写真を撮り続けるというもので。タレントさんは入れ替えでしたが、僕は10日間みっちりでした。毎日、睡眠時間は2〜3時間。体はクタクタです。それでも最後、鳥取砂丘に行ったときは「カッコいい写真を撮ってやろう」と、特に気合いを入れて撮影に臨みましたよ。それなのに、実際の誌面を見てみると、僕が撮った鳥取砂丘での写真は1カットあるかないか。大々的に使われていたのは、悪天候のタイミングでたまたま入ったボウリング場で、遊び感覚で撮ったスナップ写真でした。


――それはショックですね……。


西條 さすがに聞きましたよ。「どうして僕が撮った砂丘のカットを使ってくれなかったんですか?」って。そしたら「砂丘でカッコよく撮るんだったら、大御所のカメラマンが撮った方がよっぽどうまい。逆にボーリング場で撮った写真は、彼女たちが素で楽しんでいる様子がかわいらしくて、いいじゃないか」と言われて。うまく納得できないし、モヤモヤしました。でも、カッコいい写真、きれいな写真だけが、いい写真ではないというか。この方と現場をやり抜くうちに、そういった”人を撮るうえでの写真の本質”に気づかされていきましたね。 僕のカメラマン人生において、なくてはならない出会いでした。


――ちなみに、週プレで初めて撮り下ろしをされたのは、いつ頃だったんでしょう?


西條 週プレはそのだいぶ後でしたね。もちろん、グラビアを撮っている身として週プレに対する意識は相当ありましたけど、なかなか呼ばれなかったので(笑)。当時、活躍されていたカメラマンの方たちは、週プレもそうですが、ほとんどが大手の漫画誌で撮られているという分かりやすい図式があったので、「僕もそこからお声がかからないかなぁ」と思いながら仕事を続けていました。その頃の漫画誌は、数人のカメラマンが固定でやり繰りしている状況だったので、僕が入る余地は全くなかったんですけど。そんなとき、大手漫画誌のひとつである『ヤングサンデー』(現在は休刊)が声をかけてくださったんです。そこで撮らせていただくようになってからですね。僕の写真が多くの方の目に触れる機会が与えられたのは。その頃、既に30代半ばくらいでしたかね。グラビアのカメラマンとして活動を始めてからそこまでいくのに、ずいぶんと時間がかかりました。


――そうだったんですね。とはいえ、西條さんはもともとヌード系のグラビアを多く撮られていたという話でした。漫画誌の爽やかなグラビアにギャップを感じることはありませんしたか? 


西條 ありましたよ。当時の漫画誌は今以上に、青い空、青い海が絶対でしたから。天気が悪い写真は撮っても使われないので、曇りの日は、晴れるまでひたすら待っていましたね(笑)。『ヤングサンデー』には、2008年の休刊まで6〜7年くらいお世話になりました。休刊後は『少年サンデー』や『ヤングマガジン』など、ありがたいことに、さまざまな漫画誌に呼んでいただきましたね。ただ、やっていくうちにどんどん漫画誌の絶対感が刷り込まれていって。一時期その刷り込みに変にとらわれ過ぎちゃう時期もありました。


――最近の西條さんの作品を見ていると、しっとりめの写真も多いので、そういった刷り込みがあったのは意外です。


西條 自分のなかでの写真の感覚は、いろんな媒体や編集さんと出会う度に変わっている感じがしますね。業界的には、最初「ヌードを撮る人」というイメージだったのですが、漫画誌をやり出してからは「漫画誌でタレントさんを撮る人」のイメージになっていました。その後、ご縁があって週プレでも撮らせてもらうようになったんですけど、とある編集さんに「西條さん、ヌード撮れますか?」って聞かれたときは驚きましたよ。そっか、今そんなイメージなんだって(笑)。それでまた、袋とじでヌードを撮らせてもらったんですけどね。ともかく週プレのグラビアは、漫画誌の絶対感とは全く違う世界でしたね。晴れていようが、雨が降っていようが、その被写体の良さが出ていればどんな表現でもいいという、より写真の本質に近づける貴重な媒体であると思っています。実際に、撮影する状況が悪いほど上がりがいいみたいなことも度々ありますね。自分の中では、ですけど(笑)。


西條彰仁編・第三話は12/17(金)公開予定! 水湊みお1st写真集で意識した「崩して、プラスにする」とは?


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西條彰仁プロフィール

さいじょう・あきひと●写真家。1968年生まれ、埼玉県出身。

趣味=釣り、料理

写真家・藤田健五氏に師事し、独立。1998年、西條写真事務所を設立。

主な作品は、今年11月に発売された水湊みお1st写真集『みなとみないと』のほか、佐藤寛子『恋文』『水蜜桃』、松浦亜弥『アロハロ!2』、川村ゆきえ『香港果実』、山崎真実『MAMI蔵』『re.』、ほしのあき 『ダブ・ハピ DOUBLE HAPPINESS』、 道重さゆみ『LOVE LETTER』、譜久村聖『うたかた』『glance』(2022年1月発売)、矢島舞美『 Nobody knows23』、森戸知沙希『森戸知沙希』『Say Cheese!』『Crossroads』、石田亜佑美『20th canvas』、大島由香里『モノローグ』など。自然光を活かし、被写体の美しさや色気を滑らかに捉えた作風が特徴。

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