2022年9月16日 取材・文/とり
あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。
第13回目のゲストは、週プレで、初水着グラビアから井桁弘恵を撮り下ろし(デジタル写真集『いげちゃん』など)、CYBERJAPAN DANCERS写真集『BONJOUR!!』などを手掛けた笠井爾示氏が登場。『月刊シリーズ』の思い出のほか、自身の作品集やグラビアに対する素直な気持ちを語ってもらった。
――大学で経験した暗室実習をきっかけに、写真に興味を持たれて。その後、写真を仕事にしたいと思われたのは、いつ頃だったんですか?
笠井 写真を仕事にしようと思ったことは、今まで一度もありません。ただ、転機といえば、大学在学時にアメリカ出身の写真家であるナン・ゴールディンと出会ったことですかね。経緯については、過去に他の媒体で何度かお話ししているし、今回は端折らせていただきますけど、大まかに言うと、彼女が僕の写真を評価してくださったんですよ。
――ナン・ゴールディンもまた、日記的な感覚で身近な日常を捉える写真家。そんな方に評価されるなんて、何か運命的な出会いを感じますね。
笠井 親しくなるにつれ、彼女は、僕をいろんな写真家や編集者に紹介してくれました。そのとき出会った新潮社の編集者の方が、僕の写真を気に入ってくださり、いきなり写真集を出そうという話になって。既に大学を卒業した後の1997年に、『Tokyo Dance』(巻末には、ナン・ゴールディンによる解説も収録)というタイトルで、初めて僕の写真が世に出ることになったんですよね。
――す、スゴすぎる展開……。
笠井 「写真を仕事に」なんて発想はなかったものの、大学4年生の時点で写真集を出すことは決まっていたので、就職活動はおろか、もはや大学を卒業する意味すらないと思いましたよ。とはいえ、大学に通うお金は親に出してもらっていたし、卒業だけはちゃんとしておこうと。卒業制作は、環境デザイン科らしく、大学の近くにあった二子玉川の辺りに円形劇場を建てて、都市を発展させるというテーマで取り組みました。そしたら、思いがけず最優秀賞を獲ってしまって。さすがにそこまでは狙っていなかったんですけど、このときばかりは、ふと、建築方面で就職した方が向いているかも?と考えちゃいましたね。写真集を出すことが決まっていなかったら、そっち方面で腕を磨いていた可能性も、十分あり得ます(笑)。
――『Tokyo Dance』は、笠井さんの人生を大きく決定づける一冊だったんですね。ところで、新潮社の編集者の方が、まだ大学生だった笠井さんの写真で本を作ろうと思われたのは、何故なんでしょう。笠井さんなりに、今、思い返されてみていかがですか?
笠井 当時は写真ブームみたいな感じで、HIROMIXさんに蜷川実花さん、長島有里枝さん、佐内正史さん、大森克己さんなど、若手写真家が続々と登場した時期だったんですよ。月刊カルチャー誌『STUDIO VOICE』(INFASパブリケーションズ)でも、年に1〜2回ほど、写真特集が組まれるたびに話題になっていたし。大学生が日々写真を撮りためている行為自体が面白い時代だったんじゃないですかね。もしこれが今だったら、写真集なんて絶対に出せなかったと思いますよ。
――写真が気に入られたことに加え、時代的なタイミングにも恵まれていたと。確かに、5年も時期がズレていれば、展開は違っていたかもしれませんね。そこから、お仕事にはどう繋がっていくんですか?
笠井 ありがたいことに、『Tokyo Dance』をきっかけに、少しずつお仕事の依頼をいただくようになりました。と言っても、そんなに殺到したわけじゃないですよ。そもそも、写真を仕事にするなんて発想もなければ、仕事への繋げ方もよく分かっていなかったので、これこそ本当に運が良かったんだと思います。一度も就職活動をせずに、よく今日まで生きて来られましたよね(笑)。あまりブックを持って営業したこともないので、あらゆる媒体から代わる代わるお仕事を頂いて生活している今の自分に対しても、その感覚が変わらずあるくらいです。
――お仕事が途切れないのは、きっと笠井さんのお人柄もあるでしょうね。それで、最初のお仕事は何だったんですか?
笠井 最初は、『SWITCH』(スイッチ・パブリッシング)のファッション特集だったかな?同世代の若手写真家が多く活躍している雑誌だったし、荒木(経惟)さんも出ていたから、お話をいただいたときは純粋にうれしかったですね。ただ、当時はファッションフォトなんて何も分かっていなかったですよ。師匠もいなかったので、全て自己流で撮影していました。その後も、いくつかお仕事をいただいたものの、最初のうちは「これで大丈夫なのかな?」と、どの現場でも戸惑いながら撮影をしていた記憶があります。
――いわゆる、女の子のグラビア的なお仕事でいうと?
笠井 ぶんか社や竹書房など、90年代後半にタレントさんの写真集を多く手掛けていた出版社に知り合いの編集者がいたので、20代のうちから、女優さんの写真集も何冊か撮らせていただきましたよ。これもまた、自身の作家活動を続けながら、あらゆる有名人の写真集を撮影されていた荒木さんの影響で挑戦させてもらったわけですけど、グラビアに対する興味を本格的に抱いたのは、『月刊』シリーズが出てきてからですね。
――『月刊』シリーズというと、1998年に発売された『月刊 永作博美』(新潮社/平間至撮影)のヒットに始まり、毎月あらゆる女優さんが登場されていたグラビア写真集シリーズですね。
笠井 そうそう。毎月のシリーズとして、ひとりの女優さんだけを撮り下ろした写真集が出るなんて、かなり斬新じゃないですか。しかも、当時はコンビニで普通に売っていたので、普段、写真集を買わない人たちでも雑誌感覚で手に取れたわけだし。1号目が出た時点から、「面白そうなシリーズが始まったなぁ」と注目して見ていましたよ。中でも、2001年に発売された『月刊 井川遥』は衝撃でしたね。撮影は、藤代冥砂さん。まだデビュー間もない井川さんの魅力を存分に写しながらも、藤代さんの作品性がちゃんと感じられて、スゴくカッコいいんです。率直に「僕がやりたい写真はコレだ!」と思いましたよ。だから厳密には、グラビアというよりも『月刊』シリーズに憧れたと言うのが正しいですかね。
――自分も『月刊』を撮りたい!と。
笠井 はい。しかも『月刊』シリーズの編集長・宮本和英さんは、先ほどお話しした僕の初写真集『Tokyo Dance』でお世話になった編集さんでもあるんですよ。面白い偶然ですよね。たまたまお会いしたときに「いずれ爾示くんにもオファーするから、待っててね」と言われて、首を長くして待っていたにもかかわらず、連絡は一向に来なかったんですけど(笑)。当時は、『H(エイチ)』、『CUT』、『ROCKIN'ON JAPAN』など、ロッキング・オンから出ている音楽誌やカルチャー誌をメインにお仕事をしていて、ミュージシャンやハリウッドスター、映画監督など、世界的に名の通った大物たちをたくさん撮らせていただいていました。それはそれで充実していましたが、やっぱり根底には、『月刊』で女の子を撮りたい気持ちがずっとあって。結果的に、僕が初めて『月刊』をやらせてもらったのは、2009年発売の『月刊 加護亜依』。衝撃を受けた『月刊 井川遥』から約8年経って、ようやくでした。今思うと、相当、待っていますね(笑)。
――その後も笠井さんは、『月刊 池田夏希』(2010年6月発売)、『月刊 神楽坂恵』(2010年10月発売)と、定期的に『月刊』シリーズの撮影を担当されています。実際に撮影をされてみて、当時の『月刊』の魅力はどこにあると感じますか?
笠井 『月刊』の現場って、写真家と女優さんに全てが任されるんですよ。撮影中、現場は基本的に二人きり。ヘアメイクやスタイリストはもちろん、マネージャーも、編集も、誰もいない空間を作ってくださるんです。自由な反面、第三者の視点が入らない現場は、プレッシャーもスゴいですよ。まだフィルムカメラの時代だったから、撮り終わっても、その場でデータは見せられなかったし。「どう?撮れた?」なんて聞かれても、万が一のことを考えると「まぁ、一応撮れましたよ」くらいにしか答えられなかったですね。ただ、その自由さが僕のスタイルにハマっていたのも事実。その場のニュアンスに応じて、自分の裁量で現場を動かしていけるのは、撮る手応えにも繋がりましたし、貴重な体験だったと思います。
――『月刊』は、女優さんの名前と同じくらい、写真家の名前も強く出るシリーズですもんね。作品ではなく、お仕事として、自身の作家性を思い切り試せる場というのは、後にも先にも珍しいのかもしれません。
笠井 公募に写真を出したこともなければ、写真家らしい賞をいただいたこともない。そんな競争とは無縁の人生を送ってきた僕ですが、『月刊』をやらせてもらうにあたり、密かに意識していたのは、やっぱり藤代さんでした。絶対に彼が撮影した名作『月刊 池脇千鶴』を超えてやるぞ、と。何をもって超えたとするか、その基準は特にないですし、実際、周りの方の評価がどうかは分かりませんが、個人的に『月刊 神楽坂恵』は、それなりに手応えのある作品に仕上がった自負がありました。さすがに「藤代さんを超えた」とまで言い切るつもりはありません。ただ、『月刊』シリーズでの試行錯誤が、写真家として、ひとつの達成感をもたらしてくれたことは間違いないです。
笠井爾示 編・最終話は9/23(金・祝)公開予定! 「グラビアという表現に向き合えるようになったのは、ここ4〜5年の話です」。お気に入りのデジタル写真集やグラビアの思い出を語る。
笠井爾示プロフィール
かさい・ちかし ●写真家。1970年生まれ、東京都出身。
趣味=自炊
1996年に初の個展『Tokyo Dance』を開催し、1997年に新潮社より同タイトルの写真集を発売。以降、音楽誌、カルチャー誌、ファッション誌、CDジャケットなど、幅広いジャンルを手掛けるほか、『月刊 加護亜依』『月刊 神楽坂恵』『月刊NEO 水崎綾女』など、月刊シリーズでも活躍。
主な作品集は、『東京の恋人』、『七菜乃と湖』、『トーキョーダイアリー』、『羊水にみる光』、『Stuttgart』、川上奈々美『となりの川上さん』、階戸瑠李『BUTTER』など。CYBERJAPAN DANCERS『BONJOUR!!』、渡辺万美『BAMBI』、Da‐iCE『+REVERSi』、橋本マナミ『接写』などのタレント写真集や、頓知気さきな『CONCEPT』、武田玲奈『Rubeus』など複数の写真家による合同写真集にも参加している。