『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』西田幸樹 編 第一話「ルーツを知る」 ここから抜け出したい!を原動力に。カメラマンを目指すまでの意外な道のりを語る。

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


第17回目のゲストは、80年代後半よりグラビアの第一線で活躍を続ける西田幸樹氏が登場。週プレでは、2022年に14年ぶりの再登場を果たした女優・平田裕香(デジタル写真集『KENAGE』)などを撮影している。10代のアイドルから、ヌードグラビアまで。美しい光で女性を撮り続ける彼なりのロジックを聞いた。


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——まず初めは、カメラマンになるまでのお話を聞かせていただければと思います。ご出身はどちらでしょうか?


西田 熊本です。もう本当に田舎というか、労働争議が起こるような炭鉱の社宅町に住んでいたので、子どもの頃は、早くここから出たいと常に思っていました。当然、今のようにインターネットもなければ、テレビも3つしかチャンネルがなくて。親父がよくプロレスを観ていたんですけど、自宅の裏にあった大きな山の裏側には力道山がいるんだと本気で思っていたくらいです(笑)。


——西田さん自身、その頃は何かお好きなものとかなかったんですか? 例えば、趣味とか。


西田 絵を描くことが好きでした。なかなか人に褒められるタイプじゃなかったけど、小学校の担任の先生が絵を教えている人で、その方に絵を評価してもらえた時は、正直「おれ、絵でなら何とかやれるかもしれない」と思いましたよ。その後も、中学の時は、どういう流れだったかサッカー部に入ったものの、高校では美術部に入って、油絵なんかを描いていましたし。


——高校生になると、将来を見据えた卒業後の進路選択があるわけですけど、やはり「絵に関係する職業に就きたい」と考えられていたんでしょうか。


西田 いえ。厳密に言うと、将来については何も考えていなかったですね。相変わらず、とにかく地元を離れたいとばかり思っていました(笑)。ただ、進路先としては、美術系を志望していました。本当は美大に行きたかったんですけど、「そんなので食っていけるわけがない」と親父に反対されてしまい。「国立大学なら」ということで、京都工芸繊維大学(京工大)にある工業デザインを学べる意匠工芸学科を目指すことになりました。現役で落ち、一浪しても受からずで、結局、滑り止めに受けていた京工大の短期大学部にある夜間の写真工学科に進学。19歳にして、ようやく地元を離れられました(笑)。今後、親父とおふくろの葬式以外は帰ってこない覚悟で京都に行ったのを覚えています。と言いながら、今はわりと頻繁に帰っているんですけどね。


——ひとつ目標は達成されたと(笑)。いきなり「写真」というワードが出てきましたが、西田さんと写真との出会いは、その滑り止めで合格した写真工学科がきっかけだったんでしょうか?


西田 一応、そういうことになるんですかね。写真工学科は、短期大学部にある学科(ほか機械工学科、電気工学科、科学工学科)の中から消去法で選んだようなものなんです。写真だったら絵に近くないわけでもないかって感じで。ただ、ちゃんと卒業はしたものの、学校にはほとんど行きませんでした。新聞社にお金を借りて学費を払い、新聞配りをして返納する新聞奨学生の制度を利用していたので、毎日必死で新聞配りをやっていましたよ。そもそも写真には全く馴染みがなかったですし、どんな内容の授業を受けたかも、あまり覚えていませんね。


——そ、そうだったんですね。とはいえ写真を専門とした学科ですし、初めてちゃんとカメラに触れるなど、今に繋がる体験もあったのでは?


西田 そうですね。実習授業で写真を提出しなきゃいけなかったので、カメラは買いました。自分用のカメラを手にしたのは、その時が初めてだったと思います。それでも、当時は写真を撮ることに特別な興味はなかったです。新聞配達をしつつ、時間があれば絵を描いて過ごしていました。何というか……、当時は苦しかったですね。時間と体力はあるのに、何者にも近づけていない自分が受け入れ難くて。とりあえず、目の前にある“やらなきゃいけないこと”をこなしながら、日々を生きていましたよ。


——思うように進学ができず、短大時代は悶々とされていたんですね。その後、何か打開されるきっかけはあったんでしょうか?


西田 大学2年生の夏休みに、3ヶ月ほど新聞配達の休みをとって、アメリカやカナダ、アラスカ、メキシコなどの海外に行ってきたんです。自分探しの旅ではないですけど、それがスゴく楽しくて。卒業したら、今度はもっと本格的に各国を旅してみようと。数ヶ月分のグレイハウンド(アメリカの大手長距離バス会社)チケットやユーレイルパス(ヨーロッパ諸国で使用できる外国人向けの国鉄周遊券)など、準備万端で旅を始めました。ただ、アメリカでグランドキャニオンを見た時に、ふと「やっぱり旅を続けるのは違うんじゃないか」「ちゃんと“何か”にコツコツ取り組んだ方が将来に繋がるんじゃないか」と考えてしまって。結局、旅は1週間で切り上げて、すぐ日本に帰ってきました。大学を卒業して下宿先も引き払っていたので、正確には帰る場所なんてなかったんですけど。


——ど、どうされたんですか?


西田 僕が引き払った下宿先に後輩が住んでいたので、彼の家に転がり込んだんです。するとそこに、とあるカメラ雑誌が置いてあって、何気なしに読んでみたら「住み込みで働けるスタジオマン募集」と書かれてあるのを見つけて。“住み込み”の言葉に惹かれるがまま、さっそく東京へ向かい、スタジオマンの面接を受けました。と、最初に受けたスタジオは、「君、態度が悪いから出直してきなさい」と言われ、落ちてしまったんですけどね(笑)。まぁ、写真がやりたいというより、いかにしてお金をかけずに寝床を手に入れられるかで受けた面接だったので、知らず知らずのうちに無礼なところがあったのかもしれませんが。


——突如、海外へ行かれて、今度は東京へ行きスタジオマンの面接を受けられるなんて。悶々とされていたのが嘘だったかのような行動力ですね!


西田 若さというか、それだけ“何者か”になりたい気持ちにとらわれていたのかもしれませんね(笑)。最初に受けたスタジオに落ちた後も、そのままの足で、今度は赤坂スタジオの面接を受けに行きましたよ。赤坂スタジオは、当時「やる気がれば誰でもオッケー」みたいな感じで。ラッキーと思いつつ、晴れてスタジオマンになれたわけですけど、環境はかなり厳しかったですね。


——と言いますと?


西田 赤坂スタジオも、希望通り“住み込み”ではあったのですが、寮が用意されているわけではなく。夜になると、日中、撮影に使用した白ホリの中で、在籍しているスタジオマンが雑に散らばり眠るような環境で生活をしていたんです。歴代の誰かが残した毛布やシュラフ(寝袋)をお借りしては、冬場になると後輩を風よけにしたり、毛布に新聞紙を詰めて暖をとったりと、ほぼサバイバル状態。入って1日も経たないうちに辞めていく人も多かったですね。僕が在籍し始めた1年の間で、少なくとも13人はいなくなったんじゃないかな。メインのアシスタント業務も厳しかったですし、まぁ、仕方ないですよね。ちなみに、僕の1年後にカメラマンの橋本雅司くんが赤坂スタジオに入ってきたんですけど、その過酷な生活環境には、優秀な彼も相当衝撃を受けた様子でした(笑)。


——それでも西田さんは、過酷な生活を耐え抜かれたんですよね。実際、スタジオマンとして、リアルな撮影現場の様子もたくさん見られてきたかと思いますが、写真に対する興味に変化はありました?


西田 うーん、“仕事現場”としてのスゴさや刺激はありましたけど、一刻も早くこの過酷な生活環境から抜け出したい! って気持ちが強かったですね(笑)。暗黙のルールとして、スタジオを卒業するには、プロのカメラマンのアシスタントにつかなきゃならないと。2年3ヶ月ほどスタジオマンを経験した後、とにかくここから抜け出したい一心で、横木安良夫(よこぎ・あらお)さんのもとに弟子入りしました。横木さんがどんな写真を撮られる、どんなカメラマンなのかも知らずに(笑)。


——えーっ!? 横木さんといえば、篠山紀信さんのアシスタントを経て、広告やファッションなどをはじめ、あらゆる分野でご活躍されているカメラマンさんですよね。横木さんのことを知らずに、すんなり弟子入りできるものなんでしょうか?


西田 横木さん自身、アシスタントに興味のある方ではないですから。僕の前に、赤坂スタジオの卒業生の方が横木さんのアシスタントにつかれていたんですけど、その方が独立されるタイミングで、運良くご紹介いただけて。一応、事前に顔合わせみたいな時間はありましたが、横木さんも「〇〇(前のアシスタントの名前)がいいなら、いいよ」とおっしゃってくださいましたし、僕も「アシスタントにつかせてもらえるなら是非!」という感じだったんですよね。


——何だかスゴい話だなぁ……。


西田 ここまでお話を聞いていただいて、何となくお気づきかと思いますが、僕は基本的に、流れに身を任せてここまできたタイプの人間なんですよ。最終的に、横木さんのもとには4年ほどいて。カメラマンになる決心がついたのは、2年目くらいの頃だったと思います。スタジオマン時代含めて約5年も写真の世界に身を置かせていただいたんだから、この道で何とかならないかやってみようかなと。ダメだったら、また考えようくらいの気持ちでしたね。


西田幸樹 編・第二話は1/13(金)公開予定! 初仕事は、グラビア誌『すっぴん』(英知出版)から刊行された〇〇〇の写真集「誰よりも女の子をかわいく撮れたら生き残れるかなって。たくさん分析し、研究しました」


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西田幸樹プロフィール

にしだ・こうき ●カメラマン。1958年生まれ、熊本県出身。

趣味=趣味 山行、街道巡り、工作

写真家・横木安良夫氏のアシスタントを経て、1986年に独立。

主な作品は、南粧子『マーマレイドの午後』、前田敦子『前田敦子』、葵つかさ『葵つかさ』、鈴木優香『だまされてみる?』など。鈴木愛理を筆頭に、真野恵里菜、鞘師里保、小田さくら、牧野真莉愛、山﨑夢羽など、ハロー!プロジェクトの写真集も多く手掛けるほか、2011年ごろから『週刊ポスト』では、素性を一切明かしていない美女を取り下ろす「謎の美女」シリーズを撮影。YURI『愛のアルバム』、祥子『愛にゆく人』などの写真集をリリースした。また2021年にはAV事務所・エイトマンの15周年記念企画「8woman」にて8人のモデルを撮影。東京渋谷にあるギャラリー・ルデコで写真展を開催した。翌年にも同様の写真展を開催し話題となった。

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