『グラビアの読みかたーWPBカメラマンインタビューズー』橋本雅司 編 第二話「思い出を知る」 篠山紀信氏のもとで体感した一流の空気「何があっても自分なら大丈夫だって自信があった」

あまり表に出ることのないカメラマンに焦点を当て、そのルーツ、印象的な仕事、熱き想いを徹底追究していく本コラム。“カメラマン側から見た視点”が語られることで、グラビアの新たな魅力に迫る。週プレに縁の深い人物が月一ゲストとして登場し、全4回にわたってお送りする。


第21回目のゲストは、安達祐実『17歳』や山地まり『処女』など、数々の女優・タレント写真集を手がけてきた橋本雅司氏が登場。過酷なスタジオマン時代を西田幸樹氏と共にし、巨匠・篠山紀信氏のもとでアシスタントを務めた氏が考える“被写体への向き合い方”とは。浅草にある氏の事務所にうかがい、話を聞いた。


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——当時、大学生だった橋本さんの写真を認めてくれた写真家・三木淳さんに勧められるがまま、卒業後は赤坂スタジオ(赤スタ)に入社されたとお聞きしました。スタジオでは1年先輩にあたるという(カメラマンの)西田幸樹さんからも赤スタ時代のお話をお聞きしましたが、相当過酷だったそうですね……。


橋本 住み込みで働かせてもらっていたんだけど、業務もいそがしければ、ゆっくり休めるほどの環境も整っていなくて。食事も自分たちで作らなきゃいけなかったし、一日中働きっぱなしでも最初のうちはたったの2万5千円しかお給料をもらえなかった。入る前から大変なのは聞いていたとはいえ、現場は想像以上に辛かったね。


——労働環境に耐えられず辞めていかれる方も多かったと聞きます。


橋本 正直、辞めたくなる瞬間は何度もあったよ。でも、俺は三木さんに勧められて赤スタに入ったわけだから、自分の都合では辞められないって気持ちだった。赤スタを辞める=写真家になることを諦めなきゃならない、くらいの覚悟だったね。ただ、ズルは得意なタイプだったから、ちょっとでも時間があれば、隙間に隠れてコッソリ寝てた。そこで生き抜くために、思いつく限りのズルは相当やったよ(笑)。


——そうでもしないと耐えられないレベルの過酷さだったと……。


橋本 西田さんは当時からスゴかったよ。一度、彼に「300円分だろうが30万円だろうが、お金をもらう契約が成立している時点でそれは仕事だから。一生懸命やってほしい」って言われたんだ。月に2万5千円ってことは、厳密に計算すると一現場数百円程度にしかならない場合がほとんどなんだけど、それも仕事なんだからって。「おぉ〜、そういうモンなのか!」って(笑)。仕事のキホンから、何から何まで。いろいろ教えてもらったなぁ、あの人からは。


——結果的に、赤スタにはどれくらいいらっしゃったんですか?


橋本 3年だね。大変だったけど、今思い返すと、あれはあれで面白い時間だったよ。もう一度経験したいとは思わないけど(笑)。卒業後は、写真家・篠山紀信さんのアシスタントになりました。篠山さんが次のアシスタントを探していらっしゃるときに、ちょうど赤スタの社長に「いい子いないかな?」って連絡があったみたいで。赤スタの社長も俺のことを気に入ってくれていたから、卒業するタイミングで推薦してくれたって流れだったんだよね。


——篠山さんといったら写真界の大巨匠です。説明不要かもしれませんが、70年代には『GORO』(小学館)、80年代には『写楽』(小学館)などの写真雑誌で活躍され、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの最後の写真(1980年に発売されたジョンとヨーコの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケットに使用)や、155万部のベストセラーを記録した宮沢りえさんのヌード写真集『Santa Fe』(朝日出版社/1991年)など、代表作を挙げればキリがないほど、誰もが一度は見たことのある写真を撮られています。


橋本 俺がアシスタントになった頃は、コマーシャルの仕事も多くて、雑誌の表紙だけでも月に30近く撮影していたと思う。海外ロケに行くときは、アシスタントの俺までファーストクラスに乗せてもらっちゃって。“篠山紀信”といえば誰もが名前を知っている、目まぐるしく揺れ動く世間の波にうまく自分を乗せながらも、時代に負けない存在感を放っているような人だったよね。


——名だたる著名人の撮影現場に、幾度となく同行されたかと思います。やはり、緊張の場面も多々あったのでは……?


橋本 背筋が伸びる現場も確かにあったけど、赤スタの3年間を乗り越えた自負はあったし、何があっても自分なら大丈夫だって自信はあったよ。当時、俺や西田さん以上にキツいアシスタント生活を経験したヤツなんて、絶対にいなかったもん。もう二度とあの辛さには耐えられないだろうけど(笑)、今に繋がる根性というか、しっかり根を張るために必要な時間を与えてもらってラッキーだったと、本気で思っているよ。


——な、なるほど。前話で、橋本さんのお父様が、橋本さんにカメラマンへの道を勧めてくださった三木さんに「ちゃんと食えるようにしてやってくれ」と伝えに行かれたと話されていたじゃないですか。三木さんなりに「赤スタを卒業すれば食っていけるようになるはずだ」と先を見据えられたうえで、赤スタという進路を勧められたのかもしれませんね。


橋本 うん。本当にありがたいことです。


——ちなみに、篠山さんのもとで橋本さんが学ばれたことと言えば?


橋本 何かを学んだというよりは、一流の空気を吸わせてもらったって感じかな。「磯崎新さんって、岡本太郎さんって、こういう人なんだなぁ」っていうのを間近で見させてもらったことが、とにかく大きな経験になったよね。あとは、よく「誠意を示せ」と言われていたな。


——誠意、ですか。具体的に、どういうことなんでしょう?


橋本 被写体に対して、現場にいるスタッフに対して、真正面から向き合いなさいってことだと俺は理解したな。カメラマンとしての振る舞い方のことではなく、人間として大事にしなきゃならない意識のことを言っているんだと思った。誠意を持って現場に接していれば、自ずと写真も良くなるし。その理屈は、篠山さんから漂う空気感からも感じられたね。


——撮影スタイルや技術的なこと以上に大切な、人としての在り方を学ばれたと。篠山さんのもとには、どれくらいいらっしゃったんですか?


橋本 3年だね。赤スタからアシスタント時代含め約6年間、夜中まで働くのが当たり前の生活を送っていたから、独立したときは、とにかく解放感しかなかったよ(笑)。篠山さんのところを出たってことで、仕事には困らなかったし、“カメラマンらしく”、六本木でおしゃれなパスタを食って、思いっきり羽を伸ばしていたね。


橋本雅司 編・第三話は5/26(金)公開予定! 独立後の仕事遍歴から安達祐実の写真集『17歳』を語る「祐実ちゃんに言われて、俺、ブワーって泣いちゃって……」


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橋本雅司プロフィール

はしもと・まさし ●カメラマン。1958年生まれ、東京都出身。

趣味=ゴルフ

写真家・三木淳氏、篠山紀信氏に師事し、1986年に独立。

主な作品は、安達祐実「17歳」、仲間由紀恵「20th」、上戸彩「SEPTEMBER FOURTEENTH」、沢尻エリカ「erika」、磯山さやか「ism」「GRATITUDE ~30~」、満島ひかり「あそびましょ。」、ほしのあき「秘桃」、吉高由里子「吉高由里子」、道重さゆみ「La」、小向美奈子「花と蛇 3」、武井咲「風の中の少女」、剛力彩芽「Shizuku」、山地まり「処女」、小芝風花「風の名前」、岸明日香「明日、愛の風香る。」、熊切あさ美「Bare Self」、芹那「Serina.」、塩地美澄「瞬間」など。

ほか、10代の頃から撮り続けているという俳優・早乙女太一の写真集や公演ブロマイド、東京浅草のストリップ劇場「浅草ロック座」の写真集なども手掛けている。

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