2021年5月9日 取材・文・インタビュー写真/大村克巳
おかげさまで2021年に創刊55周年を迎える『週刊プレイボーイ』。
“週プレ”の華はいつの時代も、その時代に生きる日本中のオトコたちの心と体をつかんだ、他の雑誌よりページ数が断然多い、そのとき日本で一番のオンナたちが彩る「グラビア」ページだった!
そんな各時代の誌面に登場してくれた“伝説のオンナ”たちに会いに行き、グラビアの魅力を改めて紐解くインタビュー連載企画の第1回目には、“やべっち”の愛称でおなじみ、バラエティにドラマに映画で大活躍を果たし、いまでは飲食店の経営者、地方競馬の馬主としても才覚を発揮する矢部美穂さんが登場。
日本国内で雑誌が史上最高の売り上げを記録した1995年に週プレのグラビアデビューを果たした矢部美穂さんに聞く、矢部さんにとっての「90年代のグラビア」とはいったい何だったのか?
取材・文・インタビュー写真/大村克巳
* * *
――20歳になって、初めて週プレの表紙に登場ですよ。覚えてます?
矢部 覚えてるけど……今思うなら、表紙やらせてもらうんだったら髪の毛短くしない時にやりたかった。
――どうして?
矢部 短いのは完全に不評だったので。
週刊プレイボーイ1999年13号より 撮影/平田友二
――どうして不評だったのかな?
矢部 まず、この頃はバラエティで私、おバカキャラ的な感じだったので気持ちもそういう風になるじゃないですか。で、一回髪を短くして子供っぽくなったら、これが家族から全く似合わないとか色気がないとか、芸能人オーラも無くなったとか言われて。
――ひどい言われようですね。
矢部 家族からの大反対がすごくって。だからこの表紙の写真覚えてるんです。プレイボーイの初表紙で私、やっぱり髪の毛短いのが似合わないんだ、って痛感しました。せっかく表紙やるのに何で髪短いって思いました。
――短い髪もいいですよ。
矢部 でもやっぱり表情がね。かわいらしいだけになる。いくら大人っぽい表情しても追いつかない。アンニュイな感じもでないし「矢部美穂」らしさも出ない。新人さんならいいですよ、これから売り出そうって言うなら。爽やかな感じでね。
でもこれまで「矢部美穂」でグラビアやってきて、プレイボーイの初表紙が何でこれって。表紙を飾る時期を間違えましたって、ごめんなさい、そう思います。
週刊プレイボーイ1999年13号より 撮影/平田友二
――今見てもそう思う?
矢部 なんかウィッグとかで、一枚ぐらい短いのがあるのはいいんですけど、全部ってのは子供っぽいだけで、これから売り出す、露出をさせない女優さんっぽいです。こんな表情も髪の毛が長かったらもっとセクシーになるのに、もう私、短いとならないんです。これが致命的で、今もそうなんです。たまに短くするんですけど、やっぱり似合わない。もったいないです。自分で言う。
――いやいや、いいですよ。
矢部 最近の2次元とか好きな男の子には受けるんじゃないですか。
――そっか、なるほどね、2次元ね。
矢部 私すごく客観的に見ちゃうんです。グラビア受けじゃないですね。やっぱり全く「おかず」になりません。だから誰のせいでもなくて、カメラマンのせいでもなく私の髪型の問題。この髪型でエロいことしても絶対変ですって。
週刊プレイボーイ1999年13号より 撮影/平田友二
――本人としては髪が長かったら、もっと攻めても全然良かった時期?
矢部 はい。だと思います。
――そうか、ダメだったね。わかってなかった。
矢部 いやいや。
――僕は好きだけど。
矢部 私、思うの、何で表紙って。その時は言えなかったけど。やっぱ短いのやだって。こっちの写真が表紙だったらよかった。
こんなこと言って大丈夫ですか?
――もちろん。そこはグラビアの面白いところで、難しいところでもあるんだけど。モデルさんとしてはこっちがいいんだけど、作ってる側はこっちとか。カメラマンがこっちって言っても編集がこっちとか事務所はこっち、とかね。
矢部 そっか、それもあるんですね。
――だから結局、その時一番パワーの強い人が決めるんだね。
矢部 なんか、ぼやっとしたの、好きですよね。
――ぼやっ、とは?
矢部 なんかキレがない感じの。エロい感じにしても決めきれてないような、中途半端な表情とか。何でだろう? 途中が好きなのかな?
週刊プレイボーイ1999年13号より 撮影/平田友二
――言ってる意味がわかる気がする。
矢部 もう1回プレイボーイの表紙やりたいな。絶対こないから、絶対。グラビアがプレイボーイだったら全然やりますけど でも絶対オファーこないのに。
――そんなことはないですよ。読者の年齢層も上がってるしね。
矢部 今のプレイボーイの表紙って、どんな感じですか? 最近見なくなちゃって。
――『プレイボーイ』のロゴが変わってないってことは、あんまり変わってないってことかな。
巻頭と表紙が撮影されたこの頃、20歳を越えて気持ちの作り方とか変わった? 撮影の現場では表情とかポーズは自発的に? 例えばカメラの向こうに自分の好きな人の視線を意識したりとか。
矢部 衣装とか周りの景色に溶け込んで自分が主役になりきる。カメラマンを彼氏に見立てたりとかは無かったですね。何か身につけるとスイッチが入る。思い出すのは99年、この撮影の頃ですよね。22歳の頃、若干病んでた。
――精神的に落ちていた?
矢部 はい。失恋して、初めておっきな失恋をして。髪を切ったのとは関係ないですけど。確か99年、ああって思った。いろんな仕事が入ってたけど、現場に行ける状態じゃないかもって。
――今でも覚えてるくらいの、強烈な出来事だったんですね。
矢部 そうですね。
――15歳から芸能界で仕事し始めてたくさんの人と出会って、22歳になった矢部さんに 大きなことが起こった。
矢部 そう。病みましたね。事務所がすごく心配してたもん。車に乗る時、「美穂が車からとび降りるんじゃないか」ってね。
――そのレベルの病みなのね。
矢部 時期的にはプレイボーイの撮影の後だった。新潮社の月刊シリーズの撮影が入っていて、撮影の前日に朝まで号泣していて、事務所もこれは現場につれていけない、そう思うじゃないですか。でも、行きますって。そしたらそれがめっちゃいい写真で、売れて好評だったんです。
意外にマイナスがマイナスを呼ぶわけじゃないんだなって。その時の私の精神状態は 病んでるし揺れ動く。でも仕事はしなければって。それがいい感じでグラビアに出てたんで、良かった。この頃には髪も伸びてるしね。
――今、お話を聞くと、写真が確実に自分の心の成長やその時の記憶を残してくれている。
矢部 そうですね。うん、面白い。
――今はスマホでみんなが自撮りできるけど、この頃に失恋前の自分や失恋後の自分をグラビアを通して見れる。それはとても贅沢なことだよね。モデルとして選ばれたから残っている。
矢部 今はもうデジタルになって紙で残さないから、あの頃は良かったって思います。
*第4回は、5月16日(日)配信予定です
●矢部美穂(やべ・みほ)
1977年6月7日生まれ。
1992年、雑誌『Momoco』のオーディションでグランプリを受賞し芸能界デビュー。
ドラマ『温泉へ行こう』出演のほか、バラエティ番組やグラビアを中心に活動。
現在、『アウト×デラックス』(フジテレビ)などにレギュラー出演するかたわら、地方競馬の馬主としても活躍の場を広げている。
●大村克巳(おおむら・かつみ)
1965年、静岡県生まれ。写真家。
1986年にJPS展金賞受賞し。99年ニューヨーク・ソーホーでギャラリーデビュー。
2002年日韓交流事業「済州島」を日本と韓国で発表し、
2009年から2017年より毎年「NEWS ZERO展」を開催する。
個展、グループ展の開催多数。
著書に写真集『伝言 福山雅治』(集英社)、
『はだしのゲン 創作の真実』(中央公論新社)など。