2021年5月16日 取材・文・インタビュー写真/大村克巳
おかげさまで2021年に創刊55周年を迎える『週刊プレイボーイ』。
“週プレ”の華はいつの時代も、その時代に生きる日本中のオトコたちの心と体をつかんだ、他の雑誌よりページ数が断然多い、そのとき日本で一番のオンナたちが彩る「グラビア」ページだった!
そんな各時代の誌面に登場してくれた“伝説のオンナ”たちに会いに行き、グラビアの魅力を改めて紐解くインタビュー連載企画の第1回目には、“やべっち”の愛称でおなじみ、バラエティにドラマに映画で大活躍を果たし、いまでは飲食店の経営者、地方競馬の馬主としても才覚を発揮する矢部美穂さんが登場。
日本国内で雑誌が史上最高の売り上げを記録した1995年に週プレのグラビアデビューを果たした矢部美穂さんに聞く、矢部さんにとっての「90年代のグラビア」とはいったい何だったのか?
取材・文・インタビュー写真/大村克巳
* * *
――週プレではこの後、妹さんとの写真がくるんですね。
矢部 随分飛んじゃった?
――1年くらいですね。これはもうゴリゴリの企画モノですね。
矢部 この企画は私が妹を説得するところから始まって。妹は嫌がってたんですけど、姉の権限でやりなさいと。私がやりたかった。現場でも、嫌がる妹にもっとやんなさいって。
いまだに「お姉ちゃんに言われたから」とか言われますけど、プレイボーイの表紙ですよ。記念に残ってますから。これは本当の姉妹ですからね。そうじゃないとできないです。プレイボーイっていうA級の雑誌の表紙に価値がある。表紙を飾りたくてもできない女の子がたくさんいますからね。
――説得していただけたんですね。
矢部 はい。
――そうして第2弾。
矢部 妹を私が撮るっていう。暴力的ですよね。最初が次女でこの企画は三女。2008年のグラビアで、30歳で隙間産業的にどう芸能界で生き残るか、常に考えていて。これ、本当に私が撮ったんですよね? もう忘れちゃって。でもいい写真でしょ。カメラマンが姉ですから、心開きますよ。露出も高めです。4ページもいただいて。
――もっとあってもいいですね。いい写真だから。
矢部 ありがとうございます。
――さて、ここまでざっと矢部さんのグラビアを見ながら話しをさせていただいているわけですが、思うところありますか?
矢部 今こうして話ししていても、年齢によって言ってることがぜんぜん違ってきてますよね。10代、20代、30代、全部違う写真になっていて、きっと話す内容も変わってきてると。グラビアの面白さって、紙に残るという魅力がありますね。今はデジタルで、美容院に行ってもタブレットでピーって写真が流れていく。残らない感じが寂しいですね。
――時代ですね。矢部さんがデビューした時の時代背景なんですけど、92年はバブルが崩壊して、初登場のグラビアの時は、阪神淡路大震災とオウム事件があって、世の中がおかしくなってきた。
矢部 そんな時代だったんだ。
――東日本大震災があって、今はコロナで大変で、東京オリンピック開催も危ぶまれている。ずっと激動の渦に入っています。でもそんな中でも、人は生きていくために行動をする。矢部さんは15歳で北海道から東京に出て来て、芸能活動してるんですね。大人に対しての不信とかありましたか?
矢部 当時の私の環境はいじめられていて、たぶん見返すための「東京」。アイドルが好きで「東京」。だから絶対に北海道に帰らない。帰ったら負けだってずっと根底にあったから。それまでは「矢部菌」とか呼ばれてて。「矢部」とか「さん」とか「ちゃん」とかで呼ばれない。そういう学生生活だった。
だから、大人の人が「さん」「ちゃん」をつけて接してくれる。この世界のほうが大きかった。受け入れてくれる、理解してくれる大人の人のほうが好きでした。理解してくれた。
週刊プレイボーイ1995年29号より 撮影/藪下修
――自分のことは自分で決めていく。そんな感じで生きてきた?
矢部 今でもそうなんですけど、絶えず自分を客観視している。何かやらないと飽きられてしまうとか。グラビアも長くやってると、自分からアイデアを提案していったと思います。下パイで話題になったら、次はどう隠すとかね。
同じ年代でゴルフやる子が少なかったから、やってみる。競馬もね。他の子と被らない重ならないことを探していました。「矢部美穂」だったらここまでやるぞって思わせたいし、限界が来るまでやろうって。自分の感性を信じてね。43歳でレースクイーンやるんですよ。普通だったらありえない。
――ギャンブラーだね。
矢部 だって芸能界自体がギャンブル。売れないと思われている人が売れたり。売れてる人が落ちてしまったり。周りから見たら「矢部美穂」負け組と思われても、それはそう言う人の価値観だから。続けてきて、食べられているわけだから。
――すごいことですよ。
矢部 人に恵まれていると思う。この世界はきれいな人が集まるでしょ。最近は一般の人も出てくる時代だから、磨いてないとすぐ追い越されちゃう。若い時はわからないけど、「感謝」って意味がわかってくる。ちゃんと恩返ししたい。今、コロナでみんな大変です。だからこそ、心のゆとりを見つけたいです。
――タフだな。ほんと、荒波を越えて人に優しくなれる。
矢部 40代になって、人に喜んでもらえたりすると本当に嬉しい。生きがいを感じるようになりました。楽しいから。
――不自由だったことを自由に変えてきた精神力が、そうさせているんだね。
矢部 裕福な家庭に育ったらまた違ったかもしれないけど、全部プラスだったらプラスは感じられない。だから逆に、生い立ちはこれで良かったと普通に思えます。
――これからグラビアをやっていきたい子にとって、矢部さんは大先輩になる。その子たちにアドバイスを頂きたいんですが。
矢部 食生活を整えてプロとして向かい合う。あとで「修正」とか言ってると現場もシラケるから。努力して、その結果「ポッチャリ」がいいってなるなら説得力があるけど、だらけてそれじゃあね。グラビアとかにも不況が来てて、次の子が頑張らないと変わっていかない。見られることに貪欲になって頑張れば、変われるはずなんです。
――迫力のあるアドバイスです。
矢部 私自身これから歳を重ねてく中で「痛い女」には絶対になりたくない。それは強く思う。口角の下がった不機嫌な顔つきにはなりたくない。周りが暗くなるから。
――大丈夫ですよ、きっと。今回、矢部さんのグラビアを見させていただいて、なんだろう? 青っぽい表現なんだけど青春の一コマを見せていただいた気がしました。
矢部 私もいろんなことを思いだしました。嫌なこと、泣いてしまった現場。いっぱいあったはずなのに、全部受け入れられる。そう思えているから良いと思います。
――週プレ55周年記念企画は、矢部さんからのスタートです。中身の濃いお話ができて良かった。まだ、どんな形になるのかもわかりませんが良いものができると思います。
* * *
長いインタビューを終え、オフィスを出て春の柔らかい光の中で彼女の今を撮った。屈託のない笑顔には、グラビアの彼女と変わらない優しさがあふれている。
次にまた会えたら、きっとどこか違った光を放つ彼女がいる。
矢部美穂。週プレのグラビアに来てくれてありがとう。
●矢部美穂(やべ・みほ)
1977年6月7日生まれ。
1992年、雑誌『Momoco』のオーディションでグランプリを受賞し芸能界デビュー。
ドラマ『温泉へ行こう』出演のほか、バラエティ番組やグラビアを中心に活動。
現在、『アウト×デラックス』(フジテレビ)などにレギュラー出演するかたわら、地方競馬の馬主としても活躍の場を広げている。
●大村克巳(おおむら・かつみ)
1965年、静岡県生まれ。写真家。
1986年にJPS展金賞受賞し。99年ニューヨーク・ソーホーでギャラリーデビュー。
2002年日韓交流事業「済州島」を日本と韓国で発表し、
2009年から2017年より毎年「NEWS ZERO展」を開催する。
個展、グループ展の開催多数。
著書に写真集『伝言 福山雅治』(集英社)、
『はだしのゲン 創作の真実』(中央公論新社)など。